『記憶の意味』
三十年前のテキサス州都オースティン、全寮制高校の父兄会に夫婦で訪れた。教室では、日本への原爆投下に関するディベートの最中、我々の姿に、指導教師は一瞬戸惑いを見せた。「原爆投下により戦争は終結した。日本本土上陸作戦となれば、恐らく百万人の米兵が戦死し、日本にも膨大な犠牲が出た筈、その悲惨な展開を避けるための決断でした」、と締めくくる。同様の説明は、終戦時五歳の幼児の脳裏にも在り続けた。
ある日、仕事で住んだテキサス最南端の町の航空ショーを部下のトマス君と見に行く。爆音の中、メッサーシュミッツも、ゼロも居た。トマス君が突然しゃべり始める。「原爆の事、本当に申し訳ないと自分は思う。あんなひどい事をして」。十年も若い世代の米国人からの罪悪感の吐露は意外だった。
幼児は目撃した。「日本のいちばん長い日」を経て、日本人は恨まず、翌日進駐軍を歓呼で迎える。
キャノン・ハーシーなる米人芸術家が祖父の事績を追って広島、長崎を訪ねる、最近のTVドキュメンタリーに動かされた。祖父はジョン・ハーシー、ピューリッツァー賞記者である。ライフ誌記者として原爆の効果の取材を企図して、終戦直後の広島・長崎に入る。そして、ジョンは思わぬ行動に出る。体制派のライフと訣別、競合するニューヨーカー誌全冊を使って載せた被爆者六人のルポ『ヒロシマ』三万語は、淡々と、原爆の非人道性を訴えた。ニューヨーカーは瞬時に完売、三百万部超のベストセラー本は米国人に核ホロコーストの「罪悪」を悟らせる。後にエール大教授となるジョンが著した『記憶の意味』、被爆者の記憶こそが、核兵器廃絶への最大の力、というジョンのメッセージが残る。米政府は当時世論の先鋭化を怖れ、スティムソン国防長官名で、冒頭に触れた原爆投下正当化説が発表される。ジョンはその行動の心境について、家族にも一切語らなかったと、キャノンが言う。『ヒロシマ』は、一九四六年以来、尚増刷中である。
(平成二十八年二月八日 何でも書こう会)