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「800字文学館」

『ノキア・チューン』。タルレガの「グランワルツ」

志村 良知

 スペインの作曲家、フランシスコ・タルレガは、代表作「アルハンブラの思い出」を始め数多くのギター曲を書いている。「グランワルツ」は演奏時間3分位の美しい曲で、コンサートでも演奏される。
 この曲のテーマの最後の3フレーズが一時ヨーロッパの至る所で鳴り響いた時期があった。私もこれで一喜一憂した。

 94年、フランスに駐在して会社から三つ折りの傘程もあるノキア製携帯電話を支給された。ヨーロッパの携帯電話は、当時でも北欧から南欧、トルコやハンガリーまで国境を越えて通話可能であった。
 その呼び出し音が「グランワルツ」編曲の『ノキア・チューン』だった。音はデフォルトのこれ一種類しかないうえ、ノキアのシェアは圧倒的である。その為ヨーロッパ中のビジネスマンの電話が同じ呼び出し音で鳴り響くことになった。空港の到着ロビーでは交錯する『ノキア・チューン』に一斉にポケットやカバンを探るという光景が現出した。拳銃のホルスターの様な携帯ケースもあって、上着の裾を跳ね上げ、腰に手を伸ばす人も多かった。
 この電話の電池は二日とは保たなかったうえ、巨大な充電器は持ち歩きには適さなかった。数日の出張では、秘書さんと交信時間を決めて、それ以外はスイッチを切っておくのが常で、定刻に入れ忘れて秘書さんにお目玉を食らうのも再々だった。

 この電話器は3年位で代替わりした。しかし、呼び出し音が『ノキア・チューン』だけ、というのは変わりなかった。この頃から携帯電話を使ってパソコンで会社のサーバーにアクセス出来るようになった。しかし操作は複雑で電話代は非常に高くついた。今からみると原始的な技術であったのだろう。
 電話器が三代目になると着信音を選べるようになったが、勿論『ノキア・チューン』のままとしていた。そして帰任直前、最後の出張の帰りに電話器を空港のセキュリティチェックに置き忘れ、番号ごと登録を抹消して私のヨーロッパ携帯電話時代は終わった。

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