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「800字文学館」

台湾の英雄 鄭成功

大月 和彦

 昨秋、ツアーで台湾旅行をした。
 現地ガイドYさん(55歳)はサービスのつもりだろうか、旅行中ずっと親日家ぶりを見せてくれた。
 台南市では名所赤嵌(かん)楼を見学した。
 17世紀、東インド会社の勢力を背景にしてオランダが台湾の西海岸を占領していた。赤いレンガ造りのこの館はオランダが設けた政庁だった。
 前庭に、従者を連れた二人の男が向いあい、一人が頭を下げている銅像があった。謝っているのがオランダ人、昂然と頭を上げているのが鄭成功という。

 鄭成功は、17世紀初頭に明が衰退し清が勃興した時代に抗清復明を掲げ活躍した武将。
 明朝末期に、明の高官で政争に敗れて長崎の平戸に亡命した鄭芝龍と平戸の女性田川マツの間に日中混血の子として生まれた。
 福松の名で七歳まで平戸で過ごした後、父とともに動乱の中国に帰り明朝再興を図って抗戦をつづける。明の皇帝は明王朝著王の国姓「朱」を賜ったが、畏れ多いとこれを使わず、自らを鄭成功と名乗った。人々は親しみをこめて国姓爺と呼んだ。

 清朝との戦いに敗れ明朝は滅亡する。鄭成功は勢力を立て直すため台湾に渡り、同地を支配していたオランダ人を追放したがまもなく病死する。この間、台湾の開発を進めたので「開土王公」と呼ばれるようになった。
 赤嵌楼の銅像は、オランダの行政長官と思われる人物が鄭成功に恭順の意を表している場面を想像して建てられたもの。

 鄭成功の没後半世紀の正徳年間(1710年ごろ)に近松門左衛門はこの武将の波瀾万丈の生涯をモデルに、浄瑠璃『国性爺合戦』(注)を書きあげた。
 鎖国政策が採られてまもない時期に、王朝交代という激動の時代に生きた日中混血の武将の豪快な生き方を描いた作品は人気を集めた。

 台湾では鄭成功は民族的英雄として人気があり、孫文、蒋介石とともに「国父」とされているが、Yさんは同じく大陸から逃げてきて台湾を強権的に支配した蒋氏政権への反感からか、この日中混血の武将だけを誉めちぎっていた。
 (注) 近松は物語の結末が史実と異なるのであえて「国性爺合戦」とした。

(16・3・14)

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