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「800字文学館」

岩櫃山

内藤 真理子

 岩櫃山に登った。
 標高八百二メートル。曇り空の湿度の高い日だった。
 杉木立のダラダラ坂を三十分ぐらい歩いた頃、木の標識に五合目とある。
 軽い山、と思ったのもつかの間、ここを過ぎると足元はごろごろ岩。見上げると巨岩が頭上に張り出している。
 川底のような大小様々な石の道を登っていくと、目の前についたてのように切り立った岩が立ちはだかる。そこをロッククライミングさながらに、鎖に体を預けて登ったり、岩と岩の細長い隙間をすり抜けたりとスリル満点。
 八合目の少し平らな所に出て小休止。一息ついて目を移すと、灰色がかった茶の濃淡の動物がこちらを見ている。カモシカだ、こんな所に生息しているだけあって、引き締まった肢体が美しい。カメラを向けても驚かない。好奇心いっぱいの子供なのだろう。
 見晴らしのよい所に着いた。頂上だと思ったらさにあらず。先に見える頂には、一度おりて又登らなくてはならない。
 一時の貴重な休息。リュックを置いて眺めると、下界は静止画、色とりどりの屋根が整然と並んでいる。ふと見上げるとアゲハチョウがつがいで飛んでいる。木のてっぺんの葉に止まったが、定かではない。葉は緑、蝶は黄色と黒。緑の葉の上にたしかに黄色があるのだが、葉にしか見えない。しばらくして飛び去ったので、たしかにあげはだった。なかなかしたたかだ。
 下界を、見下ろすと、車が走っている。手を伸ばしてひょいと摘み上げたら、運転手が足をバタバタさせているのが見えそう。
 蝶々が、空から見下ろす人間は蟻のように見えて、万物の霊長はひらひら飛んでいる私よ、と思っているに違いない。
 頂上に着いた。五十メートル四方の平らな所で、先が見えない。
 下を見ようと、岩に打ち込んである棒をひしとつかんで下を見た。自分のいる山の壁すら見えない断崖絶壁。
 足がすくんでへたり込む。岩と棒にしがみついている自分が、アブにでもなったようで万物がやけに大きく見える。
 小人になったガリバーの気分だ。

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