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「800字文学館」

紋甲烏賊に限る

安藤 晃二

 花曇りの肌寒い日が続く。そんな夕方の台所から妻の声がする。「今日はカキフライ、あなた手伝ってください、上手でしょ」。あゝ、何たること、缶ビールを「キュキュッ」と鳴らして、一杯やる寸前だ。致し方ない。「小麦粉、卵、パン粉」が既に並び、順にまぶして、鍋に入れる、単純作業だ。「料理をしながらのワインは美味しいわよ」。妻が赤ワインのグラスを手渡す。準備がよろしいことで。タイミング良くIHのお姉さんの優しい声「余熱が完了しました」、解りましたよ。早くやっつけよう、手順よろしく最初のカキを泳がせた。

 ジュッと音がして、油の砲弾が僕の水晶体目がけて、やって来る。早く瞼の扉を閉めて、もっと速く。そのスローモーション劇の何処かで、誰かが叫ぶ「あゝ、間に合って良かった」。当たり前だ。人間の眼は秒速299,792,458メートルの光を捕えるのだ。こんなクレージーな思考の中で、驚くべき脳神経の反応速度に感激する。神様は大したものだ。

 事故原因は明解で、蠣のひだの間に溜った水滴を見逃していたのだ。次なる行動は予防策、食材の下準備はもとより、僕は結論を求めて納戸に駆け込んだ。道具箱の中で三十年の時間を生き延びた奇跡の防護眼鏡は我が厨房の常備品となった。その昔、我工場から組立部品納入の重要顧客であったキャタピラー社の本社工場見学の際、返さずに持ち帰ってしまったもので、ほゞ全方向からの攻撃に備える優れものだ。その眼鏡を手に取ると、機械油の匂いと、あの頃の記憶が蘇り、熱い思いが押し寄せた。

 数日後、またワイングラス付で注文が入った「板前さん、今晩は天ぷらよ」準備万端、お任せを。エビ天から春野菜、完了間際にスルメ烏賊を入れた。リングの不完全な皮剥き故か、同じ間違いを犯した。今度は極め付けの爆竹騒ぎ、カキの仇討ちか、はた女房の差し金か、高田の馬場の修羅場が出現した。いや、天ぷらの烏賊は「紋甲烏賊に限る」。教訓を得た。

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