御柱祭「木落し」見学記
諏訪大社の御柱祭は7年毎の寅と申の年に催される神事である。上社の本宮と前宮、下社の秋宮と春宮の4社殿の四隅、計16個所の御柱を立替える。近くの山岳から切出した直径1m、長さ20mの丸太を氏子や諏訪の人々が総出で曳行し建立する。
古代以前から続く行事で、曳行途中の「木落し」と「川越し」、境内に御柱を立てる「建御柱」の作業がとくに勇壮で見応えがある。この度は地元に住む知人のご好意で上社の「木落し」を近くから見学した。
曳行時には御柱に「めど梃子」と呼ぶV字型の大きな角を2本取付ける。柱の本体と角の上に揃いの法被を着た数10人の若衆が乗り、左右に揺らしながら箒のような御幣(おんべ)を振り、喇叭隊の音に合わせ「ヨイサッ」と叫び続ける。要所々々で声自慢の男が御柱の先端に立ち、木遣り唄を声高らかに響かせる。
御柱に取付けた長く太い綱を大勢の氏子たちが掛け声をあげ、ゆっくりと曳いて行く。周囲の観客もそれに合わせて腕と五指を屈伸し、大声で鼓舞する。諏訪地方の老若男女すべてが御柱の一挙一動に集中し、祭りに酔いしれる。
「木落し」地点の急坂の上に到着した御柱は喚声の高まりと共に徐々に前へ突き出し、興奮が極致に達すると一気に数10m下まで滑り落ちる。その際に御柱から落ちて死傷者が出たこともあったという。今回は約1時間おきに1本ずつ行われる「木落し」を3本見学したが、幸いにも大きな事故はなかった。
この盛大な祭りの目的が巨大木造建造物の技能伝承にあったことは確かだが、その起源はよく分らないらしい。諏訪大社の祭神が大国主命の次男、建御名方神(たけみなかたのかみ)で、国譲りに反対した土着武闘派の首魁であること、諏訪一帯が縄文時代のメッカだったこと、三内丸山遺跡の巨径の柱跡などが取留めもなく頭に浮かんでくる。
縄文の精神文化を追慕した岡本太郎は「木落し」に乗りたいと懇願し、断られたという。彼の気持ちが何か分る気がしてきた。