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「800字文学館」

お別れコンサート

川口 ひろ子

 今日のクラシック演奏に最も強い影響を与えた指揮者といわれるニコラウス・アーノンクールが、3月5日86歳で他界した。

 ベルリン生まれ、1953年古楽集団「ウィーン・コンツェルトウス・ムジクス」を結成。バッハやモーツァルトが生きた時代の楽器と演奏法で、当時の音を蘇らせよう、というこの革新的な運動は、クラシックファンからは猛烈な反発を食らった。しかし、高い理想とその裏付けとなる理論を基に、60年に亘って挑戦を続け、ついに時代を変えてしまった。今日古楽奏法はクラシック界の主流の一つとなっている。

「ウィーン・コンツェルトウス・ムジクス」の東京公演は2010年秋。アーノンクール登場。ゆっくりとした足取りで舞台中央に進み、気合もろとも両の手を振り下ろす。
 演奏された曲は、青年モーツァルトがザルツブルク大学の卒業式のために書いた「ポストホルン・セレナーデ」。郵便馬車の発着を知らせるホルンの素朴な響きの中に、遠い異国への憧れや、嬉しい便りを待つ時の胸のときめきなどを感じることが出来る。大好きな曲で、昔から数種類のCDを聴き比べたりして楽しんで来た。
 生演奏はまた別の魅力を持っている。乾いた音色、大胆なテンポ設定はアーノンクール独特のもので、ゴツゴツとした演奏は、ロココの甘美なモーツァルトという従来のイメージを覆し、これぞ本物とばかりに私達聴衆の胸に迫って来る。
 活気溢れる響きは、ホールの天井や壁に反射して私の体に降り注ぎ、至福のフィナーレを迎える。
 カーテンコールだ。興奮した千人余りの聴衆の喝采は止まず、アーノンクールは小さな花束を手に何度もステージに呼び戻される。

 欧州での音楽活動は続けるが、海外はこれが最後という、その記念すべき日に、巨匠はモーツァルトを選び、賑々しく日本のファンにお別れの挨拶をしてくれた。
 そのセンスの良さに感動し、頑固一徹さが発する強烈な「気」に圧倒された、忘れられない夜となった。

2016年5月11日

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