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「800字文学館」

『故郷』兎追いしかの山

志村 良知

 文部省唱歌『故郷』、3番の最後「山は青きふるさと 水は清きふるさと」をリフレインすると涙が出そうになる。
 私は山梨県北部の、二つの大きな川に挟まれ三方に青き山が迫り、開けた南には富士山を望むという高台の村に生まれ育ち、18歳から異郷暮らしなのでまさにこの歌の世界にいる。直接に我が故郷でなくても青き山が真近に高く聳える土地を謳ったものと信じていたので、作詞者高野辰之が信州の人だと知ったときはほっとした。

 アルザスに住んでいた時、地元少年合唱団の日本公演を前にした壮行演奏会があった。ストラスブール日本領事館の協賛もあって会場には大勢の日本人がいた。そこで繰り出されたのは俳句を題材にしたという新作合唱曲、当然フランス語、曲も難解で睡魔との闘いが辛かった。
 しかし最後に、『故郷』の前奏と「会場にいる故郷を遠く離れた日本人の為の歌です。一緒に歌いましょう」という司会者の言葉で目が覚めた。
「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川」
 異国の空の下、少年たちの美しい日本語合唱は涙腺を直撃した。会場はすすり泣き混じりの合唱になった。

 家内の母が高齢で、室内では動き回れるが外出はままならず、楽しみは歌という事で、居間にはカラオケ設備がある。家内が「母は生伴奏で歌った事なんてないからギターで伴奏したら喜ぶよ」と共演を提案してきた。まずは『故郷』を選んだ。カラオケ慣れしている母は音程もテンポも安定していて練習時から大いに盛り上がり、事前の広報もあって家内の姉妹も駆けつけての大発表会となった。

 1ヶ月後、二度目の発表会で母の元を訪れた。別室での母の準備も終り、家内の助けで居間に移動して席に着こうとしたとき、ギターを構えている私の目の前で突然家内の腕の中に崩れ落ち、救急搬送したがそのまま逝ってしまった。
 棺の中には『故郷』の歌詞カードと伴奏譜面を入れた。『故郷』は母とずっと歌い続ける歌になった。

 手鞠花冴へゐて雨の野辺送り   良知

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