安田靫彦の「黄瀬川陣」
竹橋の美術館で開かれた安田靭彦展で「黄瀬川陣」を見た。
頼朝と義経が再会する場面が六曲屏風一双に描かれた各168×375㎝の大作である。
皇紀2600年(1940)展に義経の部分が「義経参着」として出品され、翌年の院展に新たに描いた頼朝の像を右半双に、義経の像を左半双にした「黄瀬川陣」として出品された。
伊豆に流されていた頼朝が平氏打倒の挙兵を図るが、石橋山合戦で敗れ房州に逃れる。その後上総や下総で東国の武士を糾合して鎌倉へ入る。
富士川まで押し寄せてきた平氏との戦いを前に黄瀬川(沼津市)の陣にいた頼朝のもとに平泉から手兵を率いて馳せ参じた義経と20年ぶりに再会する場面を描いたもの。
帷幕の青畳にどかっと座り弟をじっと見る頼朝。
頼朝から離れた地面に鎧かぶとをつけたままたて膝で兄を見上げる義経。美しい若武者の顔は引き締まり、緊張感がみなぎっている。華やかな衣装と精緻に描かれた武具が強烈な印象をあたえる。清和源氏の末裔らしい気品と華麗な雰囲気が漂う。
頼朝を描くにあたっては、京都神護寺の国宝頼朝像に拠ったという。着衣や武具類も厳密な考証がされている。
吾妻鏡はこの場面を次のように記している。
一人の若者が頼朝の宿所辺りにたたずみ鎌倉殿に会いたいという。腹心土肥実平が怪しんでいると、頼朝が聞きつけ、年齢を考えると奥州の九郎(義経)ではないか、早く対面しようという。取り次ぐと若者は義経だった。「御前に参進して互いに往時を談じ、懐旧の涙を催す…」とある。
黄瀬川での再会から4年後。壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした義経は勝利を報告しようと意気揚々と頼朝を訪ねるが、兄は会うことを拒み鎌倉に入ることを許さない。義経は鎌倉に近い腰越で異心のないことなど切々たる思いを書いた「腰越状」を託して引き返す。頼朝の怒りは解けず、まもなく義経追討の院宣が下され、追われる身になった。
「悲劇の武将義経」はこの再会から始まった。
(16・5・11)