安田靭彦の歴史絵 三点(続)
日本画家安田靭彦は「黄瀬川陣」のほか義経の生涯について名画を残している。
「鞍馬寺参籠の牛若」
平治の乱で父義朝が敗死した後、七歳の牛若丸は許され、鞍馬寺に入った。心中ひそかに源氏再興を期して武芸の稽古に励んでいた頃の牛若丸を描いたもの。
毘沙門天の立像と朱塗り柱を背後にしてあどけなさの残る顔の牛若丸が描かれている。
「平泉の義経」
平泉に身を寄せていて頼朝挙兵の報を聞き黄瀬川陣に馳せ参じようとする義経と良き理解者だった藤原秀衡の別れの場面。秀衡は旅立ちを思いとどまるように諭す。義経の将来を見越しての忠告だったが、血気にはやる義経は聞かず数人の手勢を連れて鎌倉に向かった。
吾妻鏡は次のように記している。
「今武衛(頼朝)宿望を遂げらるの由を伝聞して、進発せんと欲するの処、秀衡強いて抑留するの間、密々彼館を遁れ出て首途す、秀衡恪惜(りんしゃく)の術を失い、追って継信、忠信兄弟の勇士を付け奉る…」
薄い僧衣姿の秀衡の厳しい表情。前に座る義経は、源氏再興の意を秘め、晴れがましく緊張した面持ち。悲劇的な将来を予感するものは見られない。
秀衡を描くにあたって、画伯は中尊寺金堂の金棺にあった秀衡のミイラの骨格を参考にしたという。
「静訣別之図」
頼朝に追われる身となった義経が愛妾静と吉野の山中に逃げ込むが、追及の手が厳しく足手まといになるので京都へ帰そうとする。
雪をまとった杉木立の中で緋縅しの鎧をつけ、無精ひげが目立つ義経が立って静を見つめる。白い衣装をまとい義経から贈られた鼓を抱いて泣き伏す静。義経記は「御膝の上に顔をあて、声を立ててぞ泣き伏しける。侍共もこれを見て、皆袂をぞ濡らしける」と記す。
この直後、静は捕えられて鎌倉へ送られる。
頼朝に所望されて鶴岡八幡宮で舞う。「吉野山みねの白雪ふみ分けていりにし人のあとぞこひしき」と義経を愛慕する切々とした舞いだった。頼朝は激怒するが政子にたしなめられるという有名な故事につながっている。
(16・5・26)