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「800字文学館」

龍井茶

浜田 道雄

 もう十数年もむかしになるが、当時上海に住んでいた息子夫婦とようやく歩きだした孫息子とともに杭州に行ったことがある。西湖のほとりに宿をとり、飲み食べ、観光した旅だが、いろいろ思い出も多い。なかでも龍井茶との出会いは一番の思い出である。

 西湖の周辺にも飽きて、杭州の街を散策していたときのことである。どこからともなくいい香りが漂ってきた。周りを見回すと、2、3軒先に茶を売る小さな店があり、大きな釜で職人が茶葉を炒っていた。いい香りはここから流れて来る。龍井茶の新茶を炒っているのだ。
 以前から龍井茶のことは知ってはいたが、飲んだことはなく、もちろん炒るのを見るのもはじめてだ。これが龍井茶の“釜炒り”なのか。私は感激して店頭に立ち尽くし、職人の鮮やかな手さばきを見つめていた。

 龍井茶は西湖近郊の龍井村で採れる緑茶で、最高級の中国茶のひとつである。清の乾隆帝がこの茶を好み、毎年貢納させていたという。
 緑茶は加熱処理して発酵を抑え、茶葉の緑色を残すのだが、日本では蒸して加熱するのに対して、龍井茶は釜で炒って加熱する。だから、日本の茶は煎れると濃い緑色になり、渋みも強いが、龍井茶は薄い黄色か黄金色の茶で、ふっくらとした甘みとふくよかな香りで飲む人を楽しませる。

 この茶は4月の清明前に摘み取ったものを最上とし、「明前龍井」と呼んで珍重する。私たちが杭州を訪れたのは清明節の日だったから、店で炒っていたのはまさに「明前」であった。

 出来上がったばかりのまだ温かい「明前龍井」を200グラムほど買い求め、日本に持ち帰った。いまでは龍井茶は「明前」でなくとも、とても手が出ないような高価なものになってしまったが、そのころはまだこのように街なかの店でひょいと買える値段だったのである。

 そのお茶は、大事に、大事にしながら楽しんでいたが、それでも半年ばかりですっかり飲み尽くしてしまった。それ以来、杭州にはまだ行っていない。 

(2016・05・12)

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