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「800字文学館」

桜の夢

新田 由紀子

 風邪で寝込んでいたが、用事を思い出して熱っぽい顔をマスクで覆って家を出た。石神井川沿いの桜並木まで降りてくると、花はちょうど満開だった。午後の薄日がさす中を大勢の人が出歩いている。
 だての薄着でくしゃみをしながら帰宅した先日の夜、突然の雹が二分咲きの花を叩いていた。それから風邪をひいて熱を出し、花の賑わいを見ることもなく寝たり起きたり「独り居の一人の風邪を治すだけ」などとうそぶいて。
 また熱が出たのか、度の合わないメガネのせいか、足元がふらふらする。遊歩道を駅に向かって歩いていると、向こうから母がやってきた。先日お墓を開けて父の隣に骨壺を納めたばかりなのに、もう出歩いている。両手を後ろに回して恥ずかし気に微笑んで歩いてくる。
「お母さん、桜きれいだね。見に来たの」と声をかけると、
「そうねえ、満開だね」
「ねえ、お母さん、お葬式は簡素にしちゃって悪かったね。お父さんのときのように盛大にすればよかったかな」
「いや、いいんだよ。あれで」
 母は腰をのばし、目を細めて桜の老木を見上げる。節くれだった幹からポッと二つ三つ濃い色の蕾が出ている。まるで花の子供が顔を寄せ合っているみたいだ。見上げる先は花房がたわわに重なり合って空も見えない。
「お父さんは花見が好きだったね。酔っぱらって枝を折ってきてねえ」
「花のもとにて春死なん、とか風流なところがあったわね」
 風がたって花枝を揺らし、すうっと花びらが舞った。
「ところでね、お母さん」
 突然倒れてから数か月ベッドの上で意識の戻らなかった母には、聞いておけばよかったことがいっぱいあった。母は聞こえない風で遊歩道の先に目をやると、
「あれ、お父さんがいる。桜を見に出てきたんだね」
 振り返ると、後姿の父が花を見上げながら向こうへ歩いていく。
「どれ、一緒に帰ろう」
 母の声がかすかに聞こえたが、花の靄にかき消されたように姿は見えない。満開の桜の花の下では、夢のようなことが起きる。

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