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「800字文学館」

シドニー・オペラハウス

平尾 富男

 憧れのオーストラリアに初めて出掛けたのは1973年1月だった。真冬の羽田を飛び立ち、夏真っ盛りのシドニーに降り立った。
 当時、北半球から南半球への飛行は、途中香港を経由しバンコックで飛行機を乗り換え、更には大陸西海岸の都市パースで翼を休めてから大陸を横断して東海岸の首都シドニーに向かうという長時間の旅だった。
 宿泊したのは通称シドニー湾と呼ばれているポート・ジャクソン湾のベネロング・ポイントに建つ馬蹄型のホテル。この湾の対岸に建設中のシドニー・オペラハウスが、10月の完成を目指して、明るい紺碧の空の下、暗く沈んだ群青色の海の畔に建っていた。眩いばかりの白さとヨットの帆や貝殻をデザインに取り入れた斬新的な建物は今でもシドニー、否、オーストラリアを象徴する建造物の一つだ。
 当初予定していた大ホールはオペラやコンサートを行う多目的ホールとする筈だったが、途中からコンサート専用ホールになっていた。代わりに演劇専用の予定だった小ホールには、オペラも上演可能な機能が追加されたのである。
 その年10月の杮(こけら)落しにはエリザベス女王が来場し、ベートーベンの第九が演奏されると聞かされた。オーストラリアが英連邦の中の一国であることの証である。杮落しに先立つ9月には、オペラ劇場で最初の公演、プロコフィエフ作曲のオペラ『戦争と平和』が開催された。
 オーストラリア人が自嘲気味に口にする「ダウンアンダー」、南半球への旅行は費用も時間も大いに掛った上に、かつて白豪主義を標榜する人種差別的な政策もあったから、日本人の渡航者は殆んどなく、街を一人で歩いていると物珍しそうに眺められたことを思い出す。
 帰国して暫くすると、ニューヨークに転勤を命じられた。10年を超える米国での駐在生活から東京に戻って3年半。今度はシドニーへの駐在辞令が下される。最初にオペラハウスを見てからは既に17年余が経ち、家族は4人に増えていた。

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