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「800字文学館」

わが町、四谷荒木町

都甲 昌利

 荒木町に住んで十年になる。この周辺には江戸時代の様々な史跡が残っていることに気付く。江戸時代から住んでいて今は三代目だというお年寄りがいる。世田谷区から引っ越してきた私に対し「随分と田舎から引っ越してきたんですね」と言われた。世田谷などは文化果つる所だと思っているのだろうか。世田谷区も開けた地域と思っていた私はいささか衝撃を受けた。

 確かに江戸時代には荒木町一帯は開けた土地柄だった。ここは天和三年(一六八三)、美濃高須藩三万石の松平摂津守の上屋敷があったことから始まる。今でも新宿通りと靖国通りをつなぐ「津の守坂」として地名が残っている。新宿通りは江戸時代江戸城と甲府城を結ぶ将軍の「退去路」としての役割を担っていた。江戸城侵攻の時、将軍が甲府へ逃れるための道として使われたという。上屋敷には「策の池」という広い池があった。今では谷底にひっそりと小さな池が佇んでいる。かつては縦百三十メートル横四十メートルもあったらしい。この池の周りには茶屋や飲食店などが立ち並び大勢の人が集まり殷賑を極めた。
 会津藩主の松平容保は天保六年(一八三六)荒木町十九番地で高須藩松平義龍の七男として生まれた。京都守護職として新撰組を組織して治安維持に当たるが、新政府が樹立されると朝敵となった。
 荒木町が一番華やかな時期は明治末から大正、昭和にかけてである。芝居小屋や茶屋が次第に高級な客を相手とする三業地へと発展した時代だ。昭和三年には芸妓屋八十三軒、芸妓二二六人もいたという。「津の守芸者」と呼ばれ気品が高いと言われた。

 荒木町という名はどうして付いたのだろうか。推論だが、信長に謀反を起こし一族は処刑されたが、一人生き延び荒木道薫と名前を変えた荒木村重が荒木町に住んでいたからだ。僧侶の姿をした絵画が残っているらしいが、見たことがない。村重は車力紋の衣装を着ていた。「車力門通り」という地名にも縁がありそうだ。
 平成時代は昭和時代に比べ寂れた感じだ。

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