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「800字文学館」

ある日本の原風景

斉藤 征雄

 私は北陸福井の農村に生まれ育った。小学校に入学したのは昭和二十六年。

 村はいくつかの集落で構成されていたが、多くが米の専業農家だった。戦後すぐの農地改革でかつての小作人は自作農になったが、数反ほどの零細農家が多くしかも雪国なので米の単作しかできず、生活は極めて苦しかった。
 日本経済が高度成長に入る前だから勤め口もなく、秋に米を供出して得る以外に現金収入の途を持たなかった。米代金は農協に貯金されるが、肥料や農薬それに農協が扱ういろいろな物資のローン返済で殆んど消える。したがって極端にいえば、一年を通じて現金を持たない家がかなり多かったのである。小学校で遠足があると必ず一人や二人は欠席者がいた。費用を払えないために親が泣く泣く休ませると後で聞いた。
 しかし飢えることはなかった。主食の米は確保されており、家の周りの畑で採れる野菜は家族を養うに十分だった。飼っている鶏が卵を産まなくなればつぶして食べる。大ごちそうの日だ。夜になると家族はいつも囲炉裏のまわりに集まって暮らした。

 集落には豆腐などの食料品や日用品をツケで買える店が一軒あった。その他に酒とたばこを売る店があったが、専門の魚屋や肉屋はなかった。魚はもっぱら「浜のおばちゃん」が運んできた。その日の朝水揚げされた新鮮な魚をかついでバスで一時間以上かけてやって来て一戸一戸を廻って歩く。商売は物々交換である。米一升とか五合に見合う魚をくれた。農繁期などには留守でも、あらかじめ米を出しておけば勝手に台所に魚を置いていった。
 集落に外からの来訪者は限られていたが、戦後のことなのでヤミ米のブローカーや押し売りなど胡散臭い連中がやってきた。そして物乞いも多かった。その中には門付け芸人なども混じっていて、年寄りはくぐつと呼んでいた。みんな農家の米が目的なのだ。

 今思えばあの頃の農村は、貧しかったが人と人がつながって生きる日本の原風景の一つだったような気がする。

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