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「800字文学館」

ハナショウブの競演

藤原 道夫

 ハナショウブは、古代紫の花を咲かせるノハナショウブという野生種に由来する。江戸時代に園芸愛好家の手によって野生種からさまざまな色模様の花を咲かせる品種が作り出され、珍重されてきた。野生種の特徴を留めるのが「長井古種」、他は産地によって江戸系、肥後系、伊勢系に大別されている。
 ハナショウブの名所は沢山ある。近い処では明治神宮御苑の花菖蒲田が気に入り、二十数年来花期の六月半ばに一度はここを訪ねることにしてきた。
 御苑の入口からいきなり下り坂、結構下ってさらに行くと左手に池が見えてくる。対岸は原生林のよう。蛇が水面を泳いでいるのを見たことがある。さらに進むと突然視界が開け、向こう側に四阿見えてくる。奥の方まで続く菖蒲田に紫系、青系、白など色とりどりのハナショウブが咲き競う。この風景が目に馴染んでいて、見るたびに懐かしい思いを深くする。
 ハナショウブの株の根元に小さな名札が立ててある。それらを参照しながら花を鑑賞する。よくも名称を考え出したものだ、名付け親はさぞかし楽しんだことだろう。数多くある中で「奥万里」は早く覚えた品種。下の花弁の形、青い筋の入り方が美しく、また立っている上花弁の紫色が花全体を引き締めている。「沖津白波」、「深山の雪」といった純白の花を付ける品種もある。濃い紫色の「濡烏」もいるし、上品な色の「江戸紫」もある。すべて江戸系、全体で150品種に及ぶとか。丁寧に見ていると時間が経つのを忘れてしまう。
 ハナショウブは清い水の流れる処を好む。花菖蒲田の奥まったところに「清正井」という泉が湧いている。かつてはこの水で手を洗って口を濯ぎ、最後に一口含むことにしていた。近頃面倒になり省略しがち。
 菖蒲田を一回りし、いつも去り難い気分を振り切って出口に向かう。年に一度のシーズン、次の年には前年見たハナショウブの名称をほとんど忘れ、新たな感覚で花の競演に魅せられることになるだろう。

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