草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)と天台本覚思想
草木国土悉皆成仏という言葉がある。草木のような非情のものでも仏になれるという意味だが、草や木を人間と同じように心あるものととらえるところに、日本人独特の感性が表現されている。能の謡曲にもたびたび使われており、私の好きな言葉だ。
もともとインドで、煩悩による曇りを払えばすべてのものが仏になる可能性を宿しているという如来蔵思想が生まれたが、そこに植物は含まれていなかった。それが中国に伝わって老荘思想の影響を受け非情のものも成仏すると考えられるようになった。そして日本でさらに発展して、草木一本一本が芽生え花や実をつけ枯れていくという姿そのものに人が悟りを開く姿を重ねたのである。自然の姿にこそ悟りの本質があるという考えである。
平安初期、最澄は比叡山延暦寺に日本独自の天台宗を開いた。以後比叡山は日本仏教の修行、教理探求の学問の山となった。その比叡山で、平安末期から中世にかけて発展した思想を天台本覚思想と呼ぶ。
それはインドの如来蔵思想を日本流に解釈し、衆生はすでに悟りを開いており衆生のありのままの現実界こそが悟りの現れとする思想である。つまり、この世の現実をそのまま肯定する極端な現世主義思想であった。
現世の世界が悟りの世界であれば、なにも修行などする必要はない。凡夫は凡夫のままで良いのである。その考えは当時の末法思想とも相まって安易な現状肯定を生み出し、僧兵の横暴や仏門の堕落退廃を招いたといわれる。
比叡山に学んだ法然、親鸞、栄西、道元、日蓮などがあいついで鎌倉新仏教を創設したのもこうしたことが背景にあったとされ、本覚思想は歴史的に批判されてきた。
一方で、本覚思想は草木国土悉皆成仏という精神を生み出し、その後の日本文化に大きな影響を与えて今日に至っている。それはこの精神が、いかに日本人の感性に合っているかを示している。
本覚思想は仏教の中では異端として衰退するが、その枠を超えたところで生きているといえる。