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「800字文学館」

戦中、戦後の代用食

川口 ひろ子

 昭和19年、私は国民学校1年生で静岡県富士山麓の宿場町に住んでいた。
 戦時下の食糧難はこの田舎町にも及んで、米の配給は少なく私たちは小麦粉、芋、南瓜、コーリャン等の代用食で飢えを凌いだ。すいとんは野菜の清まし汁に小麦粉の団子を落としてひと煮立ちさせたもの。モチは米の餅ではなく水溶きの小麦粉を鉄板で焼いた代用食、農家のおばさんが売りに来た。今風に言えばピッザの土台だけを食べる感じで、トッピングの砂糖やあんこもない為そのままか醤油を少し付けて食べたりした。

 戦後は、進駐軍により様々な食料が支給された。
 忘れられないのは玉蜀黍(とうもろこし)の滓だ。油を絞った後の玉蜀黍の実を乾燥させたもので、押し麦より一回り大きくて周囲にギザギザが入っていた。麦ごはん同様に1割ほどを米に混ぜて炊くのだ。我が家では私が腹痛を起こした為1回で取りやめとなった。作家の野坂昭如氏が、戦後渡米した時に「玉蜀黍の滓を食べて生きながらえた」と米国人に話したところ「あんな家畜の餌を」とあきれていた、と以前TVで話していた。
 バターピーナッツの缶詰めも忘れられない。今でも覚えているのは、小振りの缶に描かれたイラストだ。シルクハットを被った殻付き落花生が陽気に踊っている。日本の豆より小粒で油分が多く湿っていた。品種が違うのかと思ったが、そうでもなさそうだ。豆から染み出た油が缶の外にまで達している。米兵の為に長時間備蓄された携帯食であろう。不要になった缶詰が敗戦国民の為に代用食として配給されたのだ。「これをご飯の代わりにしろ?」不平を言いながらも進駐軍に感謝してポリポリと戴いた。

 年と共に戦時の思い出は薄れて行く。しかし、私の身体のどこかに、贅沢三昧、飽食の現代にどうしても馴染めない何かがある。粗食こそが我が原点、代用食の後遺症かもしれない。
 もうすぐ71回目の敗戦記念日がやって来る。今年も茄子のすいとんを食べて遠い日を偲ぶとしよう。

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