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「800字文学館」

葬式仏教(仏教と死者供養)

斉藤 征雄

 古代インドでは、輪廻の思想が信じられていた。この世の命あるものが死ぬと、天界、人間、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄のいずれかに生まれ変わる。天界には神が住むが、神といえども輪廻をまぬがれることはできない。どこに生まれ変わるかは、この世で行った行為(業)で決まる。善い行いをすれば天界に行けるし、悪い行いをすれば地獄に堕ちる。自業自得である。そして、こうした生死の連鎖に終わりはないのである。

 死んでから四十九日後に新しい命を受けると考えられた。この期間を中陰(中有)という。人びとは死者を火葬にした後、なるべく善い世界に生まれ変わるように追善供養を行った。こうして仏教の死者供養の法要が生まれたのである。
 法要は七日毎に計七回行う。最初が初七日、最後が四十九日目の満中陰である。四十九日が過ぎれば、死者は新しい世界に生まれ変わるから、インドにおいては供養はそこまでだった。
 中陰以後も長い年月にわたって死者供養をするようになったのは、中国においてだった。仏教の死者供養が儒教の祖先崇拝と結びつき、四十九日が過ぎた後も、百カ日、一周忌、三回忌が行われるようになった。そしてさらに日本において、七回忌、十三回忌、三十三回忌などが追加された。これは日本人の、祖先を神と考える伝統的な民族信仰が影響したと考えられている。

 そもそも仏教は、自らが悟ることを目指す宗教だから、死者の供養は仏教にとっては本質的な問題ではない。
 ところが日本においては、多くの日本人が仏教と関わるのは、葬式や法要のとき、つまり死者供養のときだけといっても過言ではない。だから、日本の仏教は葬式仏教と揶揄されるのである。
 何故葬式仏教になったかは江戸時代の檀家制度などそれなりの歴史的事情もあったし、死者を供養することはそれはそれで意味があることだとは思う。
 しかし、仏教は生きた人間の生き方を説く宗教だということも、たまには思い出したいものである。

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