二君に仕えず ~栗本鋤雲の生き方~
高崎市倉渕町の東善寺境内には小栗上野介の像に並んで栗本鋤(じょ)雲(うん)の像がある。二人は少年期、安積艮(あずみごん)斎(さい)の私塾『見山楼』で共に学び、生涯の盟友となった。
栗本鋤雲は御典医の喜多村家の三男に生まれ、奥詰医師栗本家の養子となり、奥詰医師を継いでいた。ところが三十四歳の時に練習船のオランダ船『観光丸』に乗船したことから、上司(じょうし)岡檪仙院(おかれきせんいん)に咎められ蟄居後に蝦夷地に左遷された。
左遷に腐ることなく、鋤雲の進取性は蝦夷地でも発揮され、
- ①蝦夷地で薬草を見つけ『七重薬園』を開く。
- ②『箱館医学所』を開設(現・市立函館病院の前身)。
- ③仏人宣教師カションにフランス語を学ぶ。
- ④エトロフ、クナシリを巡視する。
蝦夷での功績が評価され、四十一歳の時に昌平坂学問所の頭取に任ぜられた後、外国奉行となり小栗上野介と再会した。その後も進取性は更に磨かれ
- ⑤小栗の依頼により、横須賀製鉄所建設にフランスの協力体制を構築。
- ⑥横浜に仏語伝習所を設置。
- ⑦パリ万国博覧会(1867年)に際し、徳川昭(あき)武(たけ)一行の補佐を命ぜられ、日仏親善大使となり、西欧の各種知識の習得に努めた。
- ⑧渡仏中、日本人として初めてアルプス登山をした。
明治七年に郵便報知新聞の主筆となったが、論説等の政治原稿は書こうとはせず、文化関係を担当し、西洋文明の移入者として活躍した。
興味深いことは、旧幕臣の会合で同席した海軍郷参議の勝海舟に対して、「下がれ!」と怒鳴りつけたことだ。余りの怒鳴り声に、その場は凍りついたという。
幕府への裏切り者との思いか、無実の罪で斬首された盟友小栗上野介の恨みを晴らしたかったのか。
生き方を変えた鋤雲ではあったが、その胸中には無念さが残っていたのだ。 、