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「800字文学館」

東は東、西は西

安藤 晃二

 昭和二十年の夏を思い出す。初めての汽車旅行、秋田に向かった。幼稚園児を感激させたのは、鉄橋やトンネルを知らせる、少々物悲し気な汽笛、頬を打つ石炭ガラと煙の匂い、今も蘇るその匂いは、幼児の記憶に滲みついた。十二時間の旅の果ての別世界、松林を越えた遠浅の海が遊び場となり、瓜や西瓜に囲まれて過ごす毎日。関東平野からやって来た幼児は地上の距離感を初めて体感する。

 それから三十年、私は十二時間をかけて、ロンドンに赴任する。隣席の英国人に、父親から貰った四十五年前のロンドンの道路地図帳を見せた。「マイグッドネス!このまま使えますよ。」と感動している。まさか。この地図帳が未だに有効である事は、その後三年半のロンドン滞在で見事証明された。英国はそのような国だ。

 英国時代の納税実績故に、些少な年金が入る。英国の年金局から「生存証明書」の要求があった。自らが生存を宣言、サインをする。正しく本人のサインであると証する、然るべき目撃証人のサインも要求される。然るべき証人とは、判事、市長、医者、会計士、宗教家等、確たる社会的地位のある人間であるべしと、事細かく指示がある。
 市役所に電話をする。先ず、状況を理解させるのに相当の時間を要した。承諾とは程遠い雰囲気、英語の書類持込への拒絶反応だ。「要はお得意の本人確認と同じなんですよ」、と手数料三百円で区役所の協力を得た友人の例を出して突っ込む。随分待たされた後、前例がないからダメだと言う。「市民サービスを怠ったら、お仕事進化しませんね」、と切り込んだ途端「あなた、止めなさいよ!」妻の横槍だ。○○喧嘩せず、公証人役場に行き、手数料一万二千円也を支払った。郵便局で一悶着。「送付先国名は?」グレートブリテンと印刷済みなのに。「中央郵便局経由なので大丈夫でしょう」、と言いつつ局員は不安顔だ。
「あゝ、東は東、西は西」キプリング先生の詩の冒頭のフレーズを「一人歩き」させ、東と西の距離の長さを痛感した。

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