お能初見参
十二月の、ある晩、千駄ヶ谷の能楽堂で、能を観た。生涯初めての体験であった。歴史の教科書以上の能の知識も無かったのだが、能に熱狂的な友人の都合で、切符を頂いたのである。
身を切るように冷たい風に吹かれて、入ったホールの渋い雰囲気に、先ず、独特なものを感じる。能舞台を三方より取り囲む客席を見て、開演まで三十分もあったので、食堂でコーヒーを飲んだ。隣のテーブルでは、明らかにお能のベテランらしいフランス人の年配女性と、訥々と話す日本人の若者とのフランス語の会話が聞こえて来る。日本人がドビュシーに行く様なものか、成程と思う。
演目は「井筒」世阿弥の名作であるとか。先ずは、前座の狂言から始まる。小学生時代の学芸会での太郎冠者、次郎冠者の記憶が蘇る。今回は大名狂言である。理不尽なやり取りから、滑稽を押し付け、仕様のない笑いを観客に訴える。演目とは、関係がない。
「井筒」は、旅の僧が荒れ果てた在原寺に立ち寄って、業平の霊を弔う場面から始まる。そこにシテが演じる土地の女、それは、業平の妻の霊が乗り移ったもので、夫への愛情の日々を語り、能が舞われる。
筒井筒井筒にかけしまろがたけ生いにけりしな妹見ざるまに
くらべこし振分髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき
後段は、仮眠をする僧の夢枕に、その女が業平の衣を纏って現れ、再び業平との愛を歌い、その象徴ともいうべき、ふたりで子供時代に身を映した、井筒に近づいて、静寂が訪れ、消えて行く。謡いと横笛、大鼓、小鼓のクライマックスから退場のシーンにこそ不思議な感動があった。秒速何センチかの動きをどこまでも保ちながら動き続ける。未だ動いている。何故か、夕闇の中、オヘア空港におり続ける夜の旅客機の隊列を思い浮かべる。能の場合、音楽と舞を合わせる練習など、行う事はないという。夫々の名人芸を本番にぶつけるのだ。驚くべきことである。