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「800字文学館」

鉄道唱歌 我が愛しの御殿場線

志村 良知

 ♪出でては潜るトンネルの  前後は山北小山駅
 ♪今も忘れぬ鉄橋の 下ゆく水の面白さ

 昭和5年10月1日、超特急『燕』が東京―神戸間を9時間で結んだ。当時東海道線はほとんど電化されていたが、『燕』は非電化区間だった現御殿場線の60kmを考慮して蒸気機関車のC51が全線をけん引した。時速100kmを誇る高速の客車用蒸気機関車C51は坂道が苦手、標高457mの御殿場を越える急坂はC51にとって天下の険だった。特に下り神戸行きはつらい。海辺から御殿場まで20km、鉄道唱歌13番の歌詞の通りで、カーブのあるトンネルや鉄橋をはさんで25パーミルの急坂が息つく暇なく続く。
 そこで考え出されたのが、後押し機関車とその走行中切り離しだった。国府津で停車し後押し機関車を連結、登坂区間を越えて御殿場を過ぎた下り坂で走行中に切り離し沼津は通過。東京行きも沼津で後押しを連結、御殿場を過ぎたら切り離し国府津は通過。この文字通りの離れ業による短縮時間は87分から64分への23分。後の丹那トンネルによる短縮時間は20分というから効果は絶大であった。東京ー大阪片道運賃が24円18銭(5万円位)の最後尾のオープンデッキ展望車からはその一部始終が見えたはずである。
 しかし、御殿場線の果たした役割は、こうした華やかな特急列車と共によりも、東西の物資輸送手段としての方がはるかに重要であろう。御殿場線が開通したのは明治22年、日清戦争の5年前、さらに日露戦争の3年前には複線化された。明治の二つの戦争は、軍需物資を東から西に運ぶ御殿場線の貢献が大であった。

 昭和19年7月11日、既にローカル線だった御殿場線は金属供出で単線になった。しかし、御殿場線は今でも全線が東海道本線時代の敷地を保ち、複線の橋梁跡も残っている。富士山南麓の各駅にはスイッチバックの土手が凛々しく聳える。そこには成り上がりの近郊線にはない風格がある。さあ、御殿場線に乗ってみよう。

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