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「800字文学館」

柱松柴燈(はしらまつさいとう)神事

大月 和彦

 先日、信州野沢温泉に近い山里にある小菅神社の柱松柴灯の神事を見物した。
 神仏習合時代には元隆寺と呼ばれた小菅神社は飯綱山、戸隠山とともに北信濃の三大修験霊場として栄えた。小菅山(1020m)の麓に奥、中、里の三院、37の僧坊が置かれ、修験者が300人いたという。
 川中島合戦で武田勢に奥院を残して焼き払われてしまった。
 その後飯山藩の歴代藩主の庇護を受け、講堂や鳥居などが修復再建された。

 柱松柴燈の神事は古くは修験者の験比べとして行われていたが、その後農作物の豊作を祈願する年占いの行事となった。
 柱松の行事は今も西日本の各地にも見られる。また天明年間に戸隠を訪れた菅江真澄はこの行事を観察し記録している。

 里社本殿前の広場に雑木の枝や柴などを束ねた高さ4m、周囲2.5mぐらいの柱松が、上(かみ)と下(しも)に二基作られ、頂部には御幣、サカキ、ススキの穂が据えられている。柱松は山ぶどうの蔓で四方から支えている。
 前夜奥社に泊まり、池で身を清めた神松子と呼ばれる7・8歳の男の子が神職などと広場に繰り出し、若衆によって柱松の頂部に引き上げられる。若衆と一緒に火打ち石を使ってススキの穂への点火の早さを競う。
 2基の柱松のどちらが先に燃え付くかによって天下泰平か五穀豊穣かを占う。
 見物人が見守る中で神松子と若衆は火打ち石に挑む。10分ぐらいで下の柱から白い煙が上がった。今年の運勢は五穀豊穣とされた。

 柱松の燃え残りの枯れ枝などは縁起物として見物人が奪い合い、持って帰る。これを田や畑に挿しておくと豊作になるといわれている。近郊や県内外から大勢の見物人が集まるこの地域での最大の祭だった。

 この奇祭は数年前に国の登録無形民俗文化財に指定されたが、集落に若者がいなくなり、また経費の負担が大変になったので3年毎に行われるようになった。豊かな暮らしの願いを込めてずっと伝承されてきたこの行事の先行きは明るくはない。

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