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「800字文学館」

ペンネーム

清水 勝

 企業OBペンクラブの『掌編小説勉強会』では小道周帆(しゅうほ)というペンネームで愚作を書いている。この周帆という名は幕末の砲術家 高島秋帆(しゅうはん)から頂いている。

 高島秋帆は代々長崎の町年寄りで、出島にいるオランダ商館長ストゥルレルに洋式砲術やオランダ兵学を学んでいた。それを基に1835年に「高島流砲術」を確立した。
 秋帆は1840年のアヘン戦争の情報を得て、清朝軍の敗け要因を探った。そして我が国も洋式砲術を採用し、兵制の近代化が必要であるとの建白書を長崎奉行に提出した。
 幕府は、1841年に徳丸ヶ原(板橋区高島平)で秋帆に洋式砲術を公開させ、その威力を知った。以降、秋帆は幕府に重用された。しかし、妬みと欧化思想を敵対視していた勘定奉行鳥居耀蔵らの勢力により、密貿易の疑いを掛けられ、10年間も幽閉されてしまった。
 1853年ペリー来航。秋帆の必要性を感じた韮山代官江川太郎左衛門は特赦を取り付け、自らの手付役として猿島(横須賀)、下田などに砲台を築かせた。
 それだけで終わる秋帆ではない。鎖国攘夷論の根強い中で、二度目の建白書を老中阿部正弘に提出した。その内容は外国の軍艦の強さを具体的に示し、それに対抗するための防備には年月が掛かる故、戦争は4,5年はやらない方が得策であるとした。さらに十分な武備を整えた上で、開国し交易を行うべきという内容であった。
 さすがの江川もその内容の影響を考慮し、時機尚早ではと指摘したが、秋帆は「時機をみて上書するのは策士のやること。国士は潔しとしない」と答えて提出した。
 感情的な攘夷論に対して、この建白書は秋帆が撃ち放った強烈な論理的砲撃であった。

 この論理的攻撃力と共に、情報収集・分析・対応を具体化する秋帆の先見性、主体性、更には国を思う姿勢を学びたいと、遠慮しつつもペンネームを周帆とした。但し、口の悪い仲間からは、主体性どころか、風任せの帆そのものがキミの姿勢だと指摘されている。

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