ドイツ戦時下の音楽会
「難破船に乗せられ、嵐の夜を滝に向かって下って行くような感じだ。解体してゆく船からは脱出もできず、嵐は止むどころか激しくなるばかり、進む先に轟音をたてて落下する滝があるのはまごうことなき事実……」
最近、Oさんの勧めで読んだ小説の一節。ナチスの支配下にあるドイツを、ベルリンに住む日本の駐在武官の目を通して見た話だ。ナチスの熱狂的な支持者がいる一方で、冷めた目で将来を見つめている人たちもいたのである。
暗い出来事の多い話の中で、多少救われるのは音楽に関する挿話である。戦争中の緊迫した状況にあっても、いやそのような時だからこそか、演奏会は開かれており、一般の市民も鑑賞している。駐在武官が下宿している部屋の家主が、楽団のオーボエ奏者であることから、彼も音楽を聴きに行っている。その様子が詳細に描写されていて興味深い。
会場はオペラハウス。貴賓席には黒い制服に身を固めたナチス親衛隊の将校が着飾った女性と座っている。指揮者はフルトベングラー。演奏曲目は、最初が、ワーグナーの「リエンツィ」序曲。ヒトラーが好むワーグナーの作品である。二曲目は、モーツアルトのオーボエ協奏曲。いつもは地味な存在のオーボエも、この曲では主役である。聴衆の注目を一身に集め、軽快なメロディーを紡いでゆく。
休憩をはさんでの三曲目は何か。曲名こそ書かれていないが、「第二楽章になると、曲は一転して重く、葬列を送るような哀切感を帯びはじめる」の表現から、ベートーヴェンの交響曲第三番「英雄」であると判る。
その後に続く言葉が印象に残った。
「あの楽章があるから、曲全体に凄味がでてくるのですよね。私はあれはベートーヴェンが人間に足下を見よと訴えかけているような気がするのです。どんな意気盛んな人間でも、いずれは死ぬ。それを忘れるなと言っているような」
重苦しい空気に包まれていたベルリンで、人々はどのような思いで音楽を聴いていたのだろうか。
『ヒトラーの防具』 帚木蓬生著 新潮文庫(上・下)