『鉄道唱歌』 気笛一声新橋を
就職して沼津勤務になった。その時『鉄道唱歌東海道線編』を沼津まで覚えた。長い歌では子供の頃母に『戦友』全編14番まで教わった。この歌は物語になっているので子供でも覚えやすい。国語の勉強にもなった。『鉄道唱歌』も列車が進行して行く地名を追うことで覚えられる。1番で新橋を出た汽車は、途中横須賀線に寄り道した後、13番で現在の御殿場線に入り、17番で沼津に到着する。この歌の当時は丹那トンネルは開通しておらず、御殿場線は東海道本線の一部だった。
明治5年9月12日(旧暦)、気笛一声汽車が出発した新橋停車場は、現新橋駅汐留口から汐留シティセンタービルを回り込んだ辺りにあった。現在は巨大なビル群の谷間で「旧新橋停車場」という小さな博物館になっている。二階が展示室になっているが、展示物は汐留貨物駅跡からの発掘物が多く、鉄道に興味が薄い人にはがっかり博物館かもしれない。
屋外では、現物を探し出したという双頭レール(上下対称形で天地返しして二度使える)が敷設された線路、当時の位置にある0哩標識などが興味深い。また、往時の新橋停車場の再現という建物とターミナル形式のホーム遺構は、漱石ファンなら袴姿で降り立った三四郎の若々しい姿を思い浮かべるであろう。
その場所は脇坂淡路守の上屋敷跡である。淡路守は忠臣蔵の物語で傷を負って逃げる吉良上野介を扇で張ったと描かれ、史実では浅野家断絶の後、赤穂城受け取りの正使を務めた。
本懐を遂げたのち、本所吉良屋敷から引き上げる赤穂浪士はすぐ北に面した現在の昭和通りを通ったとされている。浪士たちは、この先の現日本テレビ辺りにあった仙台藩上屋敷で湯漬けの供応を受けた。本所から8km余り、前夜に蕎麦をたぐってから飲まず食わずで大乱戦を戦い、雪道をここまで歩いて来た体に湯漬けは染みわたったであろう。
鉄道唱歌の2番では、高輪泉岳寺に葬られた浪士たちを「名は千載の後までも」と讃えている。