高杉晋作を支援した白石正一郎
志士の隠れた支援者といわれる白石正一郎は、明治13年8月に69歳の生涯を静かに終えた。彼はこんなことを心の中で語っていたのではないだろうか。
私は九代続いた廻船問屋『小倉屋』の蓄財を使い果たし、先祖の皆さまには深くお詫び致します。また、妻・加寿子には奇兵隊や我が家を訪れた数多くの志士達の世話をして頂き感謝しています。とりわけ商業道に励んでいた弟・廉作を奇兵隊員に引き込み、戦死させました。廉作、許してくれ。
文久3年(1863年)6月6日、高杉晋作様が訪れ「藩の軍が正兵ならば、それを外れた軍、奇兵隊を作る」、「戦いは侍だけの務めではない。町人、百姓、漁師も大工もあらゆる者を集めて軍隊を作る」といった言葉は眩しいほど輝いておりました。身分を越えて新しい国を、皆の力で作ろうという晋作様の発想に心を打たれたのです。
「私に何を望むのか」と問うたところ、即座に「金だ!」と答えました。
私は商人でありながら、鈴木重胤先生から国学を学び、神道・尊皇の考えに魅かれ、多くの門人たちとも交流しておりました。そんなことから算盤勘定を無視して、大義のために行動する精神の快感を知るところとなったのです。
それだけに晋作様の想いを遂げさせたいと、奇兵隊に集まった兵士の西洋式軍装をはじめ、彼ら全員の衣食住いっさいの面倒を快く引き受けました。その後も私を訪ねてくる尊皇攘夷の志士達への支援は惜しみなく行いました。また、晋作様亡き後の奇兵隊員の不幸を見逃せず、経済面での面倒も見させて頂きました。
当然ながら家業の資金繰りは厳しいものとなり、明治8年に破産いたしました。
伊藤様、山縣様をはじめ長州の志士の皆様の明治政府でのご活躍は何よりでございます。多くの方から新政府でのお取り立てのお話も伺っておりましたが、全てお断り致しました。
私が全ての財産を投げ打ってでも手に入れたかったのは、新政府の役職ではなく、新しい日本だったのです。