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「800字文学館」

遠い飲み屋

新田 由紀子

 八ヶ岳連峰の南端にすっくと立つ形の良い山がある。標高2500mほどの編笠山だ。原生林を抜けて大岩が積み重なる頂上に達すると、360度の展望が広がる。富士山、南アルプス、中央アルプスを望み、背後には、南八ヶ岳の主稜線が権現岳、赤岳へと続いている。稜線に向けて下る鞍部には風雨にさらされた山小屋が見える。目を凝らせば、入り口にぶら下がる赤提灯まで見えるかもしれない。
『遠い飲み屋』と書かれたその赤提灯に魅かれて今年も登ってきた。会社の山仲間4人を誘い、夏の北アルプス縦走のトレーニングというふれこみだ。とはいっても、仲間たちは若くて健脚揃い。ハイペースで達した頂上からの眺めも堪能し、眼下に見える今夜の宿『青年小屋』、別名『遠い飲み屋』に思いを馳せていた。
 受付を済ませ、おつまみの袋を抱えて談話室に顔を出すと、いきなり「あなたがた、飲みに来たの?」と厨房から小屋の主人が言う。棚に並んだお酒のボトルを私たちは食い入るように見ていたに違いない。「いえ、ちゃんと頂上踏んで来ましたよ。明日は権現岳登って天女山へ下ります」。小屋の常連客は編笠山頂を越えずに、巻き道をやって来る。そして、主人への差し入れと、マイボトルを補充していくそうだ。道理で選りすぐりのお酒が並んでいるはずだ。「山小屋の楽しみここにあり」とばかりに爽快な小宴会が始まった。
 その日の宿泊客はたったの8人。夕食後もテーブルを去らずワインボトルを開ける客に、主人はギターと地酒を手にして加わる。消灯準備を終えたスタッフ2人もグラスを持って座る。国際山岳ガイド、県警山岳救助隊長、数々の肩書を持つ主人のライヴと山話。私たちはもう夢見心地だ。
 と、風が鋭い音をたて、雨粒が窓ガラスを叩いた。いけない、飲み過ぎた。明日の権現岳の鎖場は侮れないのだ。
「明日は雨だし、風強いよ。あなたがた、権現登るの?」
 そう言うと、小屋の主人はまた皆のグラスにお酒を注ぎまわるのだった。

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