関東郡代伊奈氏の偉業(中条堤)
赤山城址で関東郡代の伊奈氏のことを知り、帰宅後にインターネットや書物でより詳しく調べてみた。
伊奈氏初代の忠次は家康の配下として小荷駄奉行を務め、戦時には物資調達・輸送、橋梁・土塁建設などの兵站を司る。平時には新領土の検地、新田開発、年貢米徴収などの民政を担当する。
土木技術、経済、民心把握に優れ、上下からの信望厚く、家康が関東移封を決断する際には忠次の進言を聞き入れたという。江戸入府後は直ちに関東一円の治水利水、新田開発、検地・知行割などを任される。
まず江戸から関東平野にかけての広大な沼沢地を沃地や居住適地に変えようと利根川の東遷事業や荒川の西進開削といった治水利水に取り組む。手始めの「会の川締切り(1594)」に続けて、関東各地で新田開発と水害防止のための溜井(貯水池)と排水路・用水路を造成する。その成果は幕府として百万石の増収になったという。また隅田川に初めて千住大橋を架け、結城紬などの殖産事業も行う。彼の遺徳を偲び、現在でも「伊奈」や官位名の「備前」をつけた地名、神社、堤、堀が随所に残っている。
多々ある功績の中でも特に中条堤が注目に値する。忍城(行田市)の北西部に位置し、利根川にほぼ直角に築いた数キロ長さの控堤だ。河川が大増水した時に堤防上流域の田畑を犠牲的に水没させて巨大な水溜をつくり、下流域を水害から守る方法である。この中条堤は江戸初期から明治期末まで利根川治水の要であった。
この堤の現状を見たくなり、熊谷駅発のバスでその地に向った。グライダーの滑空場になっている利根川の河川敷へ着く。直ぐ下流で合流する福川の堤防に立つと、確かに一筋の中条堤が平坦な農地を二分して視界の先まで伸びている。
堤の上を歩こうとするが、草茫々で人を寄せつけない。百年以上も前に役目を終えた堤がそのままにされている事も驚きだが、四百年間も洪水や風雪に堪えてきた築堤技術に感服し、改めて伊奈忠次へ尊崇の念を強くした。