東京の万葉歌碑―防人の歌―
赤駒を山野(やまの)に放(はが)し捕りかにて 多摩の横山徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ
万葉集に載せられた数少ない東国を詠んだ一首である。
防人として召集され、九州に赴く武蔵国豊島郡の壮丁椋椅部荒虫(くらはしべあらむし)を、妻の宇遅部黒女(うちべのくろめ)が見送る際に詠んだ歌。東国の庶民の氏名も記されている。
飼っている赤茶の馬を放ったままで捕まえることが出来ず、夫を徒歩で出発させるのはなあ、という妻の心境を詠ったもの。方言や訛りが混ざっていて一家の働き手を失った妻の淋しさや悲しさがにじみ出ている。
働き手を取られたばかりでなく、行路の装備と食料は自分持ちなので、留守家族の負担は大きかった。
召集された防人たちは武蔵国の国府が置かれた府中に集められ、ここから陸路難波に向かった。
歌にある「多摩の横山」は府中市の南方、多摩川の南岸に横たわる多摩丘陵にあると推定されているが、八王子市横山とする説もあり、ここに万葉公園が造られている。
京王線めじろ台駅近くにある万葉公園の森の中に、この歌が刻まれた碑がある。隣に武道の神八幡神社が建っている。
朝鮮半島からの侵攻に備え、九州、壱岐などの守備を担う防人は、初めの頃は全国から集めていたが、東国の兵士がすぐれているとされ、天平期初年以降は東国の兵士に限られるようになった。
当時軍政の責任者として兵士の人事や防人の召集などを担当していたのが兵部少輔大伴家持だった。
万葉集の編纂者と目され、自らも450首近い歌を載せている家持は一方で、古くから武門を担当する名門大伴家の嫡子であり、地方長官や参議を経て陸奥按擦使鎮守府将軍にまで上りつめた貴族だった。
家持は天平勝宝年間のある年、九州に派遣されるため難波に集結した防人が作った歌の中から80余首を選んで万葉集に載せた。冒頭の歌はその中の一首。
父母や妻との別れ、故郷との別離を悲しむ生の声が伝わる防人歌が万葉集に収載されたのは、兵部少輔家持ではなく歌人家持の心情が働いたからである。