神と仏と日本人
仏教が日本に広まる過程で、土着の宗教である神々への信仰と如何に共存するかが大きな問題だった。そこで生まれたのが、神と仏は本来同一のものであるとする神仏習合の思想である。
神仏習合は奈良時代に始まり、平安時代に最も盛んになって本地垂迹説にまで発展した。本地垂迹とは、インドで生まれた様々な仏(本地)が化身となり日本の地に八百万の神として現れた(垂迹)という考えで、たとえば天照大神は大日如来の化身などとされる。
二つの宗教が融合すると、それぞれ双方の宗教が変質するのは当然である。
仏教にとっては、神というものを仏と同格のものとして尊崇する必要が生じた。それが神社に神宮寺を造ることや寺院の境内に守護神を祀ることに現れた。また、必ずしも仏教にとって本質的ではない祖先崇拝や死者供養を重視するようにもなった。
さらに真言宗の両部神道、天台宗の山王神道など、仏教でありながら神道理論を構築した。この神道理論は、本地垂迹説を基本にして仏教を主に置き、神道を従とする考えだったことは言うまでもない。
神仏習合の考えは鎌倉新仏教にも支持されて明治維新の神仏分離まで続き、日本人に深く浸みこんだ。
これに対して神道の側からの反発もあった。中世に度会家行の伊勢神道は反本地垂迹の立場から神主仏従を説き、吉田兼倶の吉田神道は仏教から独立した唯一神道を確立した。こうした流れが江戸時代に受け継がれ、平田篤胤の復古神道へとつながっていく。
そして決定的には明治政府による神仏分離と国家神道の制度化だった。国家神道は神道を国家の理念とし、天皇を中心にして国民を統合する考えであった。
戦後、国家と神道は分離され今日に至る。
現在多くの日本人の宗教感覚は、神と仏の区別が曖昧のように見受けられる。八百万の神を信じる一方でお寺にも参り葬式もする。こうした日本人の宗教観は神仏習合の長い歴史の名残だろうが、無理してどちらかに偏するよりは自然の感覚のような気がする。