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「800字文学館」

十三夜

首藤 静夫

 十月は、満月がたまたま十五日にあたり、快晴にも恵まれた。月見を楽しんだ人も多かっただろう。
 その夜、頃合いを見て近くの河原にでた。すでに秋の虫は少なく、わずかに草雲雀や馬追いなどがかぼそい声をたてていた。月見を妨げるものはない。煌々と川面に照らされる満月を見た。
 ところが、十月には十三夜の月をこそ愛でるのだそうな。秋が深まっていく時分、月の少しだけ欠けている部分に思いをいたし、余情をもたせるのだと。徒然草にも「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」とある。満開の花、曇りやかげりのない満月だけに趣きを求めるべきでないという。

 今を絶頂と咲き誇る桜、一点の曇りのない満月は確かに見事である。だが、見ているうちに何かしらの不安、心のざわめきを覚えることもある。その先が思いやられるからだろうか。
 水彩画などでは白地の部分をわざと残す。塗り残すことで奥行きが増し、絵に膨らみを与えられるからだ。
 人間も同じ。らいらくで少し隙のある人の方が大きく見える。こういうタイプは組織から早々に追われることが多い。しかし、残りおおせると大物になったりする。自分に甘い分だけ他人のミスや欠点を許せるからだ。自分に厳しいがまわりにも厳しい完全主義のタイプとは対照的だ。

 ところで太宰治が彼の名作『富嶽百景』に書いている。富士三景の一つ、御坂峠からの富士を見ていう、
「私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。・・私は、恥づかしくてならなかつた。」
「どうも俗だねえ。お富士さん、といふ感じぢやないか。」
 あまりに完璧な光景に出会った感想で、ナイーヴな太宰らしい。
 秀麗な富士の絵はまことに美しい。しかし、真っ赤に怒った頑固親爺のような北斎富士、笑い転げたおばはんのような球子富士は見あきることがない。
 月も富士も、花も人も少し欠けていた方がよいのかも知れない。欠けすぎは問題であるが・・・・・・。

   ほどほどに生くるは難し十三夜   しずを

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