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「800字文学館」

高杉晋作への恨み

清水 勝

 大正5年、高杉晋作死後50年記念の催しが下関桜山で行われ、晋作を偲ぶ大勢の人々で賑っていた。そんな中で、ひとり冷やかに見つめている老人がいた。名を蔵田千弥という。高杉晋作を父の仇とする人物である。
 それにはこんな事情があった。

 長州藩には上級武士からなる正規軍の撰鋒隊と、高杉晋作が結成した農民や下級武士からなる奇兵隊とがあり、互にいがみ合っていた。
 長州藩世子毛利定広が奇兵隊、撰鋒隊の両隊への視察をする予定であったが、奇兵隊のみで時間切れとなった。撰鋒隊ではその恨みから、使番の宮城彦輔が画策したとして彼を襲うと脅した。
 そうした言動への抗議に総督の晋作自らが撰鋒隊宿舎の教法寺に出向いた。それが契機となり、奇兵隊が撰鋒隊を襲撃した。事情を知らぬまま高熱で病床に伏せ、逃げ遅れた撰鋒隊の蔵田幾之進が斬り殺されてしまった。
 遺児である蔵田千弥からの仇討の嘆願状を、長州藩は「直接の下手人は不明であり、壮気過激の者どものしたことであるから災難と諦めるよう」と認めなかった。
 それだけではない。本来ならば責任者として晋作に厳しい処分すべきところを、奇兵隊総督の座を罷免するに止め、その代わりとして、事件の発端となった宮城彦輔に切腹させることで事態の収束を図った。さらに奇兵隊総督を罷免した晋作を、『八月十八日の政変』対応のためとして、奥番頭格に昇進させ重用した。
 こうした藩の一連の対応は蔵田一族にとっては我慢が出来ないものであった。蔵田家にとっては、下手人が判らなければ責任者である晋作が恨みの対象となった。
 その恨みをいかに晴らすかが長子である蔵田千弥の使命であったが、会うことすらできず、晋作は労咳により27歳で没した。
 晋作の死後、千弥は晋作の墓を暴き、その場で切腹する考えだったが、周りから止められてしまった。

 維新の原動力となった高杉晋作を親の仇とする蔵田千弥の無念の思いではあるが、語られることはない。

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