月並(つきなみ)な文章ですみません
月並という言葉は、もともとは「毎月、月ごと」の意味だが、現代ではもっぱら「平凡、ありきたり」の意味で使われる。これは最初、俳句の世界で使われたことを最近になって知った。
俳句の源流である連歌は室町時代に大流行したが、室町後期に座興として滑稽味を加味した俳諧連歌が生まれた。
俳諧は江戸時代に入っても庶民の間で流行をみたが、滑稽や思いつきを並べた言葉の遊びの域を出ない低俗なものであった。それを幽玄閑寂の「さび」の芸術に高め、蕉風俳諧を確立したのが元禄時代の芭蕉である。
俳諧には五七五の発句と連歌が含まれるが、芭蕉は発句を独立した文学作品として位置づけた。そして芭蕉の死後、多くの弟子たちに受けつがれ定着するが、やがて次第に低調になっていった。
それが安永・天明時代に蕪村などの俳人が各地に出て中興期をもたらした。しかしその後再び低調になり、芸術性がうすれ低俗化する。
低調とは言え「月並句合(つきなみくあわせ)」という句会は盛んに行われた。宗匠が毎月兼題を出して句会を開き、点数をつけて競い合うものである。その結果発句は、宗匠に気に入られて高得点を目指す点取り主義に堕落した。そして点者である俳諧宗匠が大きな権威を持つ存在になった。こうした状況が明治時代の中頃まで続く。
明治の中期、子規は発句を俳句と呼ぶとともに、対象をありのままに素直に言葉にする写生の手法を唱え、俳句の革新を求めた。子規の批判の対象は、江戸以来の月並句合の俳句だった。「天保以後の句は、概ね卑俗陳腐にして見るに堪へず。称して月並調といふ」(『俳諧大要』)と断じたが、要するに月並調は、概念的、類型的で陳腐、ありきたりだというのである。子規が評価したのは、写生調で新鮮さを表現した蕪村の句であった。
子規の革新運動の結果、俳句は近代化の道を歩み始めるのである。
同時に、月並という言葉が「平凡、ありきたり」という意味を持つようになり俳句以外にも使われるようになったという。