鈍色の海
朝、目覚めるとまずコーヒーを淹れ、そのカップを抱えてベランダの椅子に身を沈める。海を眺めるのがいまの私の日課だ。
眼前に広がる海は相模灘。遠い水平線にはいくつもの大きな船影(ふなかげ)が浮んでいる。
海は季節によって、あるいは天候によって、その姿を変える。春には水平線を霞で包み、華やいだ色で明るく輝く。夏には深く黒い海面(うなも)を広げて、「ここには黒潮が流れている」と気づかせる。
だが、秋も終わりに近づき、冬がすぐそばまできているこのごろの海は、日々鈍色を濃くして重く淀む。
そんな海の移ろいを眺めながら、ふと「自分に残された時間はもうそんなにない」と思った。
数年前までは、「歳をとったのだから、当たり前だ」と別に気にはしなかった。それがいま気づいてみると、「あとどれくらい残っているのか」とか、「それまでに何をするのか」など、さまざまな思いが心をよぎり、落ち着かない。
とはいっても、残された時間を知る方法などあるはずもない。これが金銭なら財布の底はすぐ見える。だから「もうなくなった」とか、「あと少しだ」とかがわかって、対策も立てられる。
しかし、私の残り時間の入った財布は大きいのか小さいのかもわからないし、決して底を見せようとはしない。それでいてある日、突然鬼の姿でやってきて、「お前の時間はなくなった」と閻魔庁に引き立てて行く。
まあ、それはまたそれでいいのかもしれない。「アッ、そう」といって、一緒に逝ってしまえばいいのだから。だが、なんとなくあとに残る人たちには、無責任かなと思わぬでもない。
それに、「あとこれくらい残っている」と知っていたほうが、日々の心は休まるようにも思える。
そんなことを考えていると、いつのまにか時間が過ぎていく。残り少ない時間はこうしてまた無為に消えてしまうのだ。
しばらくしてコーヒーが冷めかけているのに気づき、あわてて口に含む。そしてまた鈍色の海を見る。海の色はまた一段と濃くなったようだ。