作品の閲覧

「800字文学館」

西方浄土が遠ざかる

首藤 静夫

 皆さんは仏さまに出会ったことがおありだろうか。仏さまに出会えるのは西方浄土へのお迎えか、有難い啓示を受けるときか特別の場合だろう。ところが私は会ったのだ、ついこの間――。

 晩秋の奈良。
 今年も興福寺の阿修羅像に対面できた。観光客の多くが東大寺に向かうおかげで、興福寺の有名な仏像群をわりあい静かに拝むことができる。
 5、6年前にこの寺の創建千三百年を記念して特別展が東京で開催され、阿修羅像も出品された。大変な人出で大成功だったようだが特別展は性に合わない。ストリップ劇場でもあるまいに、大勢で寄ってたかって好奇の目で見物する雰囲気が嫌いなのだ。
 ここ興福寺では、国宝・重文も決められた位置に何ごともなく収まっている。阿修羅像も八部衆の一体として自然なたたずまいだ。
 阿修羅は、修羅場・修羅道の言葉のように、闘争に明けくれる容貌魁偉な暴れ神とされる。だが、ここの阿修羅像の何と清純なことだろう。三つの顔、六本の手は最初こそ奇異に感じられるが、正面のお顔を眺めているうち気にならなくなる。眉根を少し寄せた表情はこの世の深い哀しみか、あるいは衆生を救済しようとする意思なのか。いろいろに感じられるが、それ以前に生身の人間のようだ。
 お顔の色がすばらしい。ほどよい丹色が全体にいきわたり、目元のあたりの深い赤みが何ともいえず、血の通った少年か少女のようだ。
 この仏に対する感情を何と表現しよう。少年少女に対する性愛感情に似た、あるいは中学生時分に好きだった彼女への追憶か。
 折角だから五・七・五にまとめようと、東京への帰途ずっと考えた。寝床でも考えたがうまい句が浮かばない。そのまま寝入った。すると明け方、夢枕にあの仏さまが現れた。無言だったと思う。あろうことか私はこの仏さまに抱きつき、まぐわおうとしたのだ。そこで目が覚めた。惜しいことだ――。
 天罰か、それ以来何を詠んでもいい句ができない。西方浄土も遠ざかったことだろう。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧