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「800字文学館」

思い出のカーサ・モーツァルト

川口 ひろ子

 30年程前のことだ。「そんなにお好きならば、今度ファンクラブが出来たので訪ねてみては」という、馴染みのレコード屋さんのお勧めで、モーツァルトの同好会フェラインの例会を訪ねた。

 原宿竹下通りにほど近い静かな住宅街、坂道をしばらく行くと3階建ての小さな家が見えて来る。モーツァルト愛好家中村真氏が建てたカーサ・モーツァルト(モーツァルトの家)だ。1階はクリニック、2階が資料室、3階は世のモーツァルティアンの為のサロンとなっていて、ここがこの日の例会場だ。正面にモーツァルトゆかりの派手な油絵が飾られ、横の壁面は金の背文字が光る洋書がびっしりと収められた本棚だ。30人ほどの参加者はみな楽譜に目を落とし、タンノイのスピーカーから流れるモーツァルトを熱心に聴いている。
 世話人のM氏は意欲満々の働き盛り、「楽譜を見ながら聴くと、より深く理解できます」と、毎回全員の楽譜をコピーして持参するという。私は重い紙の束を手にして「何とすごい会に来てまったのだろう」と、驚くばかりであった。
 この日は、私のレベルとかなりかけ離れた内容に怯んだがしばらくお付き合いしてみると、大変マニアックな人からソコソコの人までかなりの幅があることが判り安堵した。当時私はまだ会社員現役、激しい競争社会を右往左往していた身にとって、同好の志として温かく迎えてくれるのが何より嬉しかった。

 その後多くの変遷があり、一時閉鎖されていたカーサ・モーツァルトは、昨年、長男孝氏が「もっと気楽に生演奏を!」をモットーにNPO法人として再開した。我がフェラインも年2回ほど開催される演奏会の折は利用させてもらっている。サロンの程良い広さは、演奏者と一緒に濃密な時間を共有できる空間と評判はすこぶる良好だ。

 ただ音楽に身を任せているだけで幸せ、未だに楽譜には不案内な私であるが、原宿のカーサ・モーツァルトは私の出発の地、忘れられない場所である。

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