作品の閲覧

「800字文学館」

交響曲第九番ニ短調『合唱付き』

志村 良知

 第九を聞いた。場所は神奈川県民ホール、オーケストラは神奈川フィル、指揮は常任の川瀬賢太郎さん、2年半前20代で就任、以降各種の賞を連続受賞している気鋭である。
 私の席は、一階席中央で指揮者の真後ろ、客席の傾斜のせいで、目の高さが丁度指揮者の頭の位置にある。
 神奈川フィルと言えばコンサートマスターの石田泰尚さん。横山やっさんに一寸似た風貌に髪型、服装、ピアス、演奏スタイルの全てが個性的で、その個人的人気により、お家騒動と台所事情から存続の危機にあった神奈川フィルを救ったと評判の人である。今日は黒髪短め目のモヒカン刈りに白い縁の眼鏡、と比較的地味め。それでも袖から一寸猫背で歩み出ると万雷の拍手、恒例の団員一同誘っての深いお辞儀でまた湧く。

 私にとっての第九のデフォルトはフルトヴェングラーのバイロイト盤なので、第一楽章の出だしで「速えーっ」と感ずる。実はバイロイト盤が特に遅いのであって川瀬さんが速いわけではない。全曲で10分位の差がありそうだ。

 県民ホールの音響は元々あんまり評判が良くない。舞台も、だだっ広く奥行きが無いので、第九では演奏者の配置に無理がある。さらに吸音材のようなコート類をクロークに預けず抱えている輩が多いので、響きはいわゆる『デッド』である。しかし、川瀬さんの若々しい動きの中で奏者と丁寧に対話していくような指揮にオーケストラは力演で応える。全身で弾く石田さん独特の動きは今日も快調だ。

 第4楽章。博士号を持つバリトン、宮本益光さんをはじめ独唱陣の歌声も素晴らしい。そして第九はフィナーレへ。川瀬さんは指揮棒を握った右手を大きく振り回し、何度も天に突きあげる。そのたびに両足が宙に浮く。繊細だがおとなしいと言われた神奈川フィルが、デッドのホールをものともせず合唱と共に『生の歓び』を高らかに謳いあげる。第九はこの一年を思い起こさせる。4月に母を送った家内は終演後も座ったまま静かに涙を流していた。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧