院内銀山
江戸後期の旅行家菅江真澄は、東北地方の鉱山や鉱山跡を何か所も訪ねている。北秋田町の太良(だいら)、白神山地の尾太(おっぷ)、毛馬内の鴇(とき)鉱山など。
藩や幕府の機密事項が多い鉱山に入るのが厳しく制限されていた当時、国学、和歌、寺社の故事のほか本草学にも通じていたとはいえ、各地の鉱山を訪ねた真澄の動機や意図、入山を許した当局の理由などは謎に包まれたままだ。
信州、越後を経て出羽に入った真澄は、天明5年の春、秋田県南部の雄物川源流に近い院内銀山を訪ねた。
「大床、小どこ、とひふき、灰吹きの床、石を砕いて銀をとる金槌の音が谷間にこだまする。…大勢の女が声をそろえて笊上げ歌をうたう。砕いた鉱石を笊に入れ水から上げるときに歌うのである…。坑内は暗く、どれほど広く遠いのだろうか。湧き出る水が清く流れていた…」と記している。
院内銀山は慶長年間に開かれ、江戸時代を通じて生野、石見とともに日本最大の銀山だった。秋田藩の直営で藩の財政を支えていた。
盛衰を繰り返したが、最盛期の天保年間には産出量が日本一で、院内の人口は1,5五万人ともいわれ城下久保田をしのぐ大きな町だった。
明治に入り工部省が外人技術者を招いて西洋式技術を導入した。その後古河鉱業に払い下げられてから産出量が増え、明治時代を通じて国内4位の銀山になった。大正期以降採算が悪化し、細々と採鉱を続けたが、昭和29年に閉山した。最近になって最新の探鉱技術によって高品位の鉱脈があることが確認されたという。
県の史蹟に指定された鉱山跡は、奥羽本線院内駅の西方四㎞の山峡にあり、現在は人が住んでいない。縦横無尽に掘られた坑道、殷賑を極めた街の跡、奉行所跡、共同墓地、神社と寺院などが残っているという。350年間にわたる血と汗がしみ込んだ人の営みの歴史物語の舞台だ。
院内駅隣にある外人技師の住んだ住宅を模した「異人館」には、は銀山の資料が展示されていて当時の様子を知ることができる。
つわものどもの跡地へは春の明るい時季に訪ねてみたい。