十一面観音との出会い
聖(しょう)林寺(りんじ)の十一面観音に出会ったのは偶然である。大阪にいたとき、紅葉狩(もみじがり)で奈良県桜井市多武(とうの)峰(みね)の談山(たんざん)神社を訪れた。噂にたがわず見事な紅葉だった。桜井駅に戻るバスの時間を調べていると、途中の聖林寺に国宝の十一面観音像があることが分かり、立ち寄ることにした。バスを降り坂道を上ると、お寺は右側の小高い丘の上にあった。天平時代の観音像は2メートルを超す木心乾漆像で、正面をしっかり見据え、凛(りん)とした雰囲気を漂わせていた。来歴には、明治の廃仏毀釈で大神(おおみわ)神社(じんじゃ)の神宮寺に打ち捨てられていた像を、フェノロサが発見し、当時の住職とともに今の聖林寺の地に大八車で運んだとあった。
白洲正子の『十一面観音巡礼』のなかで、渡岸(どうがん)寺(じ)観音堂(向源寺(こうげんじ))の十一面観音像を「日本の中でもすぐれた仏像のひとつであろう」と紹介している。お寺は北近江の長浜市高月(たかつき)町にあり、大阪から約2時間かかる。貞(じょう)観(がん)時代の観音像は優しく眼を落し、腰をひねって艶(なま)めかしい。頭上の十一面の像もそれぞれに印象的だった。浅井長政と織田信長の小谷(おだに)城(じょう)をめぐる戦いで寺が焼けたとき、住職と住民がこの像を地中に埋めて難を逃れたという。
2004年末北京への転勤を命ぜられた。『十一面観音巡礼』は「聖林寺から観音寺へ」という章から始まるが、観音寺はまだ訪れていなかった。転勤前のあわただしいなか京都府京田辺市の観音寺に急いだ。あいにくの大雨で、しかも拝観時間の終わりが迫っていた。バス停から普(ふ)賢(げん)寺川(じがわ)沿いに走った。閉まる時間だったが、住職は「もうあなただけです。時間は気にせず好きなだけ拝んでいってください」と言って出て行った。激しい雨音の中で静かに天平の観音像と向き合った。帰ろうとしたら住職に呼び止められ、温かいお茶を振る舞われた。