サイレンス
1955年に『白い人』で芥川賞を受賞し、昨年で没後20年になる遠藤周作。11歳の時に洗礼を受けた敬虔なカトリック信者で、日本人に馴染まないカトリックという洋服を、日本人に合った和服に仕立て上げることが長年取り組んだテーマの一つだった。
1966年に発表され代表作の一つが『沈黙』である。執筆以来半世紀が経った2016年に、マーティン・スコセッシ監督によって映画化されたのが『沈黙‐サイレンス‐』(1971年にも篠田正浩監督が同じ題名で映画化している)。
江戸時代初期の長崎。1549年にザビエルによるキリスト教伝来40年余り、日本統一を果したばかりの豊臣秀吉のキリシタン弾圧が始まる。強い精神と揺るぎない信仰によって殉教者となった者は歴史に名を残したが、肉体と精神力の弱さゆえに殉教者にもなれなかった者は激しい拷問や死の恐怖に屈服して棄教した。彼等の名はキリシタンの文献にも残されなかった。「教え」を捨てた棄教者は転び者と呼ばれ、当時の基督教教会にとっては腐った林檎と同じだったのだ。
遠藤周作は長崎で26枚の踏絵を眼にし、そこに残された足跡と摩耗したイエスの顔から執筆の着想を得たという。そこは市内の西坂公園、「日本二十六聖人殉教地」である。聖人殉教者たちとは1597年豊臣秀吉の命により長崎で磔の刑に処されたカトリック信者26人。
原作も映画も、主題は神の沈黙。「主よ、あなたは何故、黙ったままなのですか……」。人は誰でも罪を犯す。映画の中で名もない人々が「私は罪を犯しました(I sinned)」と言って神の許しを求めて神父の下を訪ねる場面が出て来る。その一方、信仰ゆえに踏み絵を踏めずに首を刎ねられる「かくれキリシタン」たち。信仰を守り通して、パライソ(天国)を夢見て蓆に巻かれて海中に投げ落とされる女たち。神を信じなければ命を失うこともなかった人々である。
イエズス会から日本に派遣されていたポルトガル人司祭を通して神は語る。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」