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「800字文学館」

車椅子にまつわる話

内藤 真理子

 Aさんのご主人は、二年くらい前から目が悪くなり、今ではかすかに色は見えるが全盲に近く、外出するときは必ずAさんがついているそうだ。その彼が、渋谷の混雑した駅ビルで車椅子にぶつかった。彼はぶつかった相手に懸命に詫びていた。
 ところがその車椅子氏は、ぶつかったのは健常者だと思ったのだろうが、
「車いすが目に入らぬか!」とばかりに怒りをあらわにして、詫びている人に目を剝いて去っていったそうだ。
 Aさんはご主人も怖い思いをしたのに、と思い、
「車椅子がなんでそんなに偉いの!」と怒ったのは無理からぬことだ。
 それを聞いて思い出した。
 私の父は晩年、脳梗塞の後遺症で半身不随になり、月に一度九段下にある整体に通っていた。先ず靖国神社の駐車場に車を止め、父を車椅子に乗せ、母と三人で靖国通りを渡り市ヶ谷方面に歩いて行く。その日は丁度お昼時で、ワイシャツ姿のサラリーマンや事務服の女性達が三々五々、お喋りをしながら広い歩道をのんびりと歩いていた。
 整体はビルの七階にあるのだが、そのビルのフロア―に入るのに三段の階段がある。私たちがビルの方を向いた時、ワイシャツ姿のラグビーでもやりそうな大柄の青年が傍に来て
「僕が車椅子を上に上げましょう」と言ってくれた。青年の連れも立ち止まって、ニコニコと成り行きを見ている。
 母と私は顔を見合わせて、断るのも悪いような気がして
「ありがとうございます」と車椅子から離れた。
 すると、その青年は、太めの体格の父を乗せたまま車椅子を持ち上げたのだ。あっけに取られて見ていたら、青年はあまりの重さによろっとしながらも、三段の階段を上り切り、フロアーに着地させた。
 その途端、父は車椅子の足置きを蹴上げてすっくと立ちあがり、すたすたと歩きだした。その背中が妻と娘に向かって「いつも車いすを下りて階段を上がるのに、なぜ他人に迷惑をかけるのだ」と怒りに震えていた。母と私は、青年に申し訳ないやら、父の怒りは怖いやらで散々だった。

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