「齋藤」姓のルーツ
藤原叙用(のぶもち)は十世紀の中頃の人で、房前の五男魚名を祖とする藤原北家の流れである。曾祖父の代から越前に勢力をもち、祖父時長、父利仁は共に当時武門の最高栄誉職とされた鎮守府将軍になった。
その叙用が斎宮頭(伊勢神宮斎宮寮の長官)になったことを記念して、斎宮の「斎」と藤原の「藤」をとって「齋藤」と改めた。ために叙用は齋藤姓の祖とされる。子孫は代々越前の押領使をつとめ、北陸に勢力を広めたといわれる。
子孫の中に、源平時代の齋藤実盛、実員兄弟がいる。
実盛、実員兄弟は越前に生まれたが、母の実家がある武蔵の国長井庄に移り源義朝に仕えた。当時義朝と弟義賢が争っていたが、義朝が義賢を討った際、義賢の遺児駒王丸(後の木曽義仲)を逃がしたのは実盛の計らいだったという。
実盛らはその後義朝の下で上洛し保元・平治の乱を戦うが、義朝が討たれた後は平家に仕えた。
源平の戦いが始まると、木曽義仲が兵を挙げ北陸に進む。平家は維盛を総大将にして応戦し、実盛、実員も越前に本折城と呼ばれる砦を構築して防衛した。
両軍は倶利伽羅峠で対決し、義仲は夜中に牛の角に松明を結びつけて急襲して勝利した。敗走する平家軍は加賀の篠原に陣を張ったが再び敗れ、実盛も討たれる。
討ちとった首を見た義仲が実盛と気付き、老人の筈なのに黒髪なのは不思議と思い髪を洗うと白髪になったという。実盛は敵に侮られまいとして髪を黒く染めていたのである。因みに能「実盛」はこの話を題材にしている。
弟の実員は越前本折に戻ったが、末裔が現在も本折に住んでいる。
本折から三キロ程離れたところに私の生家がある。
隣に私の家の本家があるが、本家は江戸時代に麻糸と菜種の商売で少々財をなして地主になった家柄で、苗字・帯刀を許されて早くから齋藤を名乗っていた。実盛、実員と血筋は繋がらないが本折齋藤家にあやかったのだろう。その本家から江戸の文化時代に私の家が分家したことが記録に残っている。