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「800字文学館」

『Three-Cornered World』へのお誘い

志村 良知

「何でも読もう会」が発足し、第1回で『草枕』を読む。
『草枕』は明治39年7月、『吾輩は猫である』最終第11章を書き終えて10日後に書き始め、約2週間で脱稿した漱石の長編第3作である。掲載された文芸誌「新小説」9月号は3日で売り切れ、小説家夏目漱石の名声はここに極まり、以降漱石は今日まで100年以上人気作家の地位を保っている。

 作品名の草枕は、本来の意味の旅または旅寝そのままで、『吾輩は猫である』の「吾輩」が、『草枕』では「余」として旅していると解釈されている。共に筋立てらしきものはなく、漱石自身も言うように「小説としての確たるプロットがあるわけではなく、場面場面を俳句のように」第三者的に描写する写生文で綴っている。後の作品では重要なテーマとなる主人公の心理的葛藤や、大勢の登場人物が複雑に絡まり合う人間模様の描写は全くない。
「余」が旅する那古井の湯は、熊本の小天温泉がモデルではあるが、風物も人もリアルには描写されず、そこは浮世から離れた桃源郷の如くである。小説が書かれたのは真夏の東京、漱石が実際にこの地を旅したのは8年前の真冬、小説の設定は2年前の晩春であるから、時にも季節にも脈絡は無い。「余」も当時の漱石より10歳ほど若い。
 何故、漱石は若い「余」を旅に出したのか。このころの漱石自身は桃源郷どころか東京からも離れられない状況にあった。複雑な出生に係わる因縁の人物が現れて付き纏い、胃弱で神経症の漱石は肉体も精神もぼろぼろだった。
『草枕』は、小説冒頭「余」なる主人公の画工が、「非人情」と称する自らの人生観、芸術観を述べる件と、ヒロイン那美が「余」を翻弄する場面が読者を惹きつける。那美ははたして「非人情」の世界の人間なのか、そして旅の最後に見つけた那美の目に宿る「憐れ」とは。それを冒頭「余」の独白にある三つのキーワード、智、情、意地で読み解くのが醍醐味だといわれる。
 一見不思議な英訳本の題『Three-Cornered World』は正鵠を射たものなのである。

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