新聞は法螺吹きか
「世の中に何が一番法螺を吹くと云って、新聞ほどの法螺吹きはあるまい」
新聞の書くことは全く信用できないと厳しく非難している。しかし、これは例の大統領の発言から引用したものではない。
今から百年以上も前に、夏目漱石が「坊ちゃん」にいわせている言葉である。自分のからんだ事件について、新聞が事実を捻じ曲げて書いていると坊ちゃんが感情あらわに怒りをぶちまけての話である。しかし、漱石が当時の新聞報道のあり方に疑問を抱いていたことは間違いない。
マスコミの報道が必ずしもすべて真実とは限らないし、伝え方が不偏不党でないのは事実である。しかし、自分に都合の悪い事実を報道されると、仮にそれが本当だとしても、フェイク・ニュース(偽の報道)だと言い張り、都合の良い話をでっち上げてオータナティブ・ファクト(もう一つの真実)だ、これこそが真実だと言い募ることは許されない。
オックスフォード英語辞典の出版元が、毎年「今年の言葉」を選んでいる。昨年は、Post Truth(ポスト・トゥルース)であった。
「客観的な事実よりも、むしろ感情や個人的な信条に訴える方が、世論の形成には影響力がある。そのような状況」
を意味する言葉だという。
我々は新聞やテレビの報道をそのまま信じてしまい、事実かどうか自分で判断することをおろそかにしてはいないだろうか。
事実を捻じ曲げた報道は、何も今に始まったことではない。昔からある。
「新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり……」と司馬遼太郎も『坂の上の雲』で書いている。日露戦争当時の報道姿勢をみて、まさにPost Truthが意味する状況にあったと正鵠を射た批評を行っている。
今日、これまでとは比較にならないほど多くの情報が発信されている。それを受け取る側の人たちが、事実であるかどうかにあまり関心を向けず、自分にとって心地よい情報だけを受け入れてしまうとすれば大きな問題である。
『坂の上の雲』 司馬遼太郎(文庫本第七巻)
“Post Truth”
It is defined as an adjective relating to circumstances in which objective facts are less influential in shaping public opinion than emotional appeals.