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「800字文学館」

暮れ六つの鐘 ー奈良点描ー

浜田 道雄

 夕食は街なかの居酒屋あたりで酒を飲み、軽く食べればいいと思って宿を出た。
 二月の夕空はまだ明るさを残していたが、軒の低い町家がつづく奈良町の小路に入ると、足元には夕闇が薄く広がっており、家々の軒下はすでに暗い。だが、人通りは意外と多く、仄暗い影が三人、四人と薄闇のなかに浮かんでいる。

 と、「ゴーン」と夕闇を押しつぶすように鐘の音が響いて来た。足を止め、どこの鐘かと振り返ると奈良公園の木立がくろぐろと空を覆っていて、鐘の音はそこから聞こえてくるようだ。どうやら興福寺の鐘らしい。
 時計を見ると、午後六時。
「そうか、暮れ六つか!」
 どこかにタイムスリップしたような奇妙な感覚が身体を走る。そうだ、ここは江戸時代の寺町、奈良なんだ! その辺の町家からおきゃんな着物姿の町娘が現れそうな幻覚を覚える。

 いつのまにか夕闇は濃くなり、人影も消えて灯の少ない小路は足元も定かでない。闇が広がるとともに二月の冷ややかな夜気が身体を刺し通し、寒さが芯にまで忍び込んでくる。
 足早に小路を抜け、店々の並ぶ明るく賑やかな通りに出て、一軒の居酒屋に入った。カウンターのメニューにはおでんなどの酒の肴も豊富で、酒の銘柄もたくさん並んでいる。どうやら望んでいた夕餉になりそうだ。
 だいぶ身体も冷えていたので、まずおでんと燗酒を一本頼む。そして、身体が温まったところで奈良の冷酒に切り替える。

 腹八分まで堪能したところで、さっきから気になっていた酒を仕上げに注文した。吉野の古酒だ。オヤジはその酒を店先の甕から酌み出し、私の前に置いた。
 口に含む。これまで味わったことのないふくよかな香りが口いっぱいに広がり、抑えられた甘い味わいが舌をとろけさす。酒が胃に染み渡り、腹にどっしりと居座る。
 もう、飯は食わずともいい。

 店を出ると月が小路を明るく照らしていて、闇は家々の軒下に押し込まれていた。
 明日はオヤジがいっていた長谷寺のだだ押しに行ってみるかな。

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