作品の閲覧

「800字文学館」

「アルファベット」

野瀬 隆平

 「ナポリ・オトラント・サボナ・エンポリ」。事務所中に響き渡るような大きな声で、イタリア人の女性秘書が電話口にむかって叫んでいる。すべてイタリアの地名であるが、その頭文字を並べてみるとNOSEとなる。
 今から40年ほど前、勤務していた会社のミラノ事務所。イタリアの電話事情は悪く遠距離の通話では、相手の声が聴きとりにくかった。ローマのホテルを予約するのに、宿泊者の名前であるNOSEを間違いなくホテルに伝えるため、一文字ひと文字をイタリアの地名を唱えることで確実を期していたのだ。

 似たような思い出がある。入社してすぐに配属となった東京の造船所ではソ連向けの船を建造中で、打ち合わせのためにエンジニアがモスクワに出張していた。毎日のように連絡を取る必要があったが、電話連絡もままならず、テレックスという便利な通信手段も無い時代だった。
 やりとりは全て電報。文面は日本語をローマ字で綴ったものだ。東京からの返電は社内検討が終ったあとで、どうしても遅い時刻となる。電報局に持ち込む時間もない。そこで窮余の一策として局に電話で文面を伝えていた。アルファベットの羅列を間違いなく口頭で伝えなければならない。その時に使ったのが、やはり地名の頭文字を利用したものだ。無論イタリアの地名ではない。誰もがよく知っている日本や世界の地名である。
 例えば、Nはニューヨーク、Oは大阪、Sは上海といった具合。電話ではこれを「ニューヨーク・オオサカ・シャンハイ……」と続けて唱える。毎日これをやっていると、慣れてきてかなり早口で言えるようになる。調子に乗ってスピードを上げすぎ、電報局の人から「もう少し、ゆっくりと」とお咎めをいただいたこともある。

 アルファベットとの縁は未だに切れない。毎日パソコンのキーボードに向かい、ローマ字入力をしているからだ。ただ、日本語の音に応じて自然と指が動くので、必ずしもローマ字を意識している訳ではないが……。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧