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「800字文学館」

明治初期の女子留学生

清水 勝

 明治4年11月12日、明治新政府が誕生して間もない頃に、岩倉具視を全権大使として、副使には木戸孝充、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳。そして実務を支える48名の官吏による岩倉使節団が横浜港を出発した。
 そこには67名の留学生も加わった。中江兆民や團 琢磨らと共に5人の女子留学生がいた。上田悌子(16歳)、吉益享子(14歳)、山川捨松(11歳)、永井繁子(10歳)、津田梅子(7歳)である。
 決して女性の地位が高くないこの時代に、明治新政府はなぜ年端の行かない女性をアメリカに留学させたのだろうか。
 この前年、開拓使次官黒田清隆が欧米視察の際に、ワシントン駐在の森有礼から欧米の女子教育の充実ぶりの話を聞き、実際に現場を見学し、日本の近代化のためには女子教育の必要性に共鳴した。森が責任を持って女子留学生の世話をすると約束し、これを基に黒田が建議書を提出。意外にもすんなりと認められた。
 察するに、黒田が言うから賛成しておくが、留学期間10年、見知らぬ国に幼い娘をやろうという親は出ないだろう。応募者ゼロで頓挫するに違いない。事を荒げて反対することもなかろうと考えたのかもしれない。現に応募者は誰も現れなかった。
 第二次募集に向け、黒田は知人等に必死に説得を行ったに違いない。
 津田梅子の父親は幕府の通弁、新政府では黒田の下で開拓使嘱託を務めていた。永井繁子の父益田鷹之助は外国奉行に仕え、通弁として渡米しており黒田とは旧知であった。上田悌子と吉益享子の父親は共に現職の外務官僚である。彼女たちは1年で帰国しているが、何か事前取引があったのではないか。
 全く状況が違うのが山川捨松である。維新の抵抗勢力であった会津藩家老の家柄なのだ。ただ、兄健次郎がアメリカ留学中であり、それに続けとの思いがあったのかもしれない。山川家は娘の名前である咲子を「捨てるつもりでアメリカに遣るが、無事の帰国を待つ(松)」として名を捨松に改めて送り出している。

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