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「800字文学館」

ヤマト王権の故郷

首藤 静夫

 邪馬台国論争が出ては消える。決着がつかない。それなら邪馬台国はいったん棚上げし、その後の畿内になぜ王権ができたか、彼らは何者かをさぐる方が面白そうだ。

 私の整理は次の通り。

  • 日本列島に広く縄文人がいた。
  • 紀元前数世紀に中国南方から稲作や青銅器を日本列島に持ちこんだ種族がいる。大国主族と呼ぼう。日本海側から畿内まで広く分布した。彼らは縄文人と交わり、平和な混合文化を築いた。三輪山に伝わる祭祀はその象徴である。彼らは三輪山の麓に拠点を設けた。「唐古(からこ)・鍵(かぎ)」遺跡だ。
  • ところが紀元2世紀、北東アジアの大干ばつと戦乱で大量難民が発生、日本列島に逃れた集団が鉄器と戦いの思想を持ちこんだ。
  • 先進の武器と戦いの思想で武装された彼らは、やがて中国・近畿地方を席巻し、大国主系の唐古・鍵の都は衰亡した。
  • 遊牧民の北方系は星座を祀る。日本海側に多くみられる「四隅突出型」の奇妙な墳墓はその名残である。
  • 「天下人」となった北方系が都をどこに置いたか。近くの纏向遺跡という説もあるが・・・・・・。

 四月下旬、この唐古・鍵を訪れた。桜井市の西隣の田原本町にある。この遺跡を訪れる人はマニアックだ。
 展示室で豊富な出土品をみた。説明員もいる。遺跡発掘に携わっている本格派だ。見学者が他になく丁寧だった。
 唐古・鍵は紀元前後、五百年にわたって栄えた。私の関心は隣の纏向遺跡とのつながりだ。関連するなら畿内王権のルーツ探しが進む。何しろ崇神陵、景行陵などその後の古墳文化の担い手が皆目分からないのだ。
 ここの特徴の一つは土器に描かれた絵文様だ。人物、楼閣などが豊かな線で描かれている。ところが末期には点や線などの幾何文様になったという。それも見た。変化した理由が不明らしい。「別種族のものでしょう」といったらポカンとされた。得意げに前述の主張を展開した。
 よせばよかった。プライドを傷つけたのか、それまで親切だった説明員が残りをさっさと切り上げた。

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